Style of Muratiki-Siki-Bu(紫式部むらさきしきぶ)

2007年8月8日星期三

帚木


源氏物語
帚木
紫式部
與謝野晶子訳
中川の皐月(さつき)の水に人似たりかたればむ
せびよればわななく    (晶子)
 光源氏(ひかるげんじ)、すばらしい名で、青春を盛り上げてできたような人が思われる。自然奔放な好色生活が想像される。しかし実際はそれよりずっと質素(じみ)な心持ちの青年であった。その上恋愛という一つのことで後世へ自分が誤って伝えられるようになってはと、異性との交渉をずいぶん内輪にしていたのであるが、ここに書く話のような事が伝わっているのは世間がおしゃべりであるからなのだ。自重してまじめなふうの源氏は恋愛風流などには遠かった。好色小説の中の交野(かたの)の少将などには笑われていたであろうと思われる。 中将時代にはおもに宮中の宿直所(とのいどころ)に暮らして、時たまにしか舅(しゅうと)の左大臣家へ行かないので、別に恋人を持っているかのような疑いを受けていたが、この人は世間にざらにあるような好色男の生活はきらいであった。まれには風変わりな恋をして、たやすい相手でない人に心を打ち込んだりする欠点はあった。 梅雨(つゆ)のころ、帝(みかど)の御謹慎日が幾日かあって、近臣は家へも帰らずに皆宿直(とのい)する、こんな日が続いて、例のとおりに源氏の御所住まいが長くなった。大臣家ではこうして途絶えの多い婿君を恨めしくは思っていたが、やはり衣服その他贅沢(ぜいたく)を尽くした新調品を御所の桐壺(きりつぼ)へ運ぶのに倦(う)むことを知らなんだ。左大臣の子息たちは宮中の御用をするよりも、源氏の宿直所への勤めのほうが大事なふうだった。そのうちでも宮様腹の中将は最も源氏と親しくなっていて、遊戯をするにも何をするにも他の者の及ばない親交ぶりを見せた。大事がる舅の右大臣家へ行くことはこの人もきらいで、恋の遊びのほうが好きだった。結婚した男はだれも妻の家で生活するが、この人はまだ親の家のほうにりっぱに飾った居間や書斎を持っていて、源氏が行く時には必ずついて行って、夜も、昼も、学問をするのも、遊ぶのもいっしょにしていた。謙遜もせず、敬意を表することも忘れるほどぴったりと仲よしになっていた。 五月雨(さみだれ)がその日も朝から降っていた夕方、殿上役人の詰め所もあまり人影がなく、源氏の桐壺も平生より静かな気のする時に、灯(ひ)を近くともしていろいろな書物を見ていると、その本を取り出した置き棚(だな)にあった、それぞれ違った色の紙に書かれた手紙の殻(から)の内容を頭中将(とうのちゅうじょう)は見たがった。「無難なのを少しは見せてもいい。見苦しいのがありますから」 と源氏は言っていた。「見苦しくないかと気になさるのを見せていただきたいのですよ。平凡な女の手紙なら、私には私相当に書いてよこされるのがありますからいいんです。特色のある手紙ですね、怨みを言っているとか、ある夕方に来てほしそうに書いて来る手紙、そんなのを拝見できたらおもしろいだろうと思うのです」 と恨まれて、初めからほんとうに秘密な大事の手紙などは、だれが盗んで行くか知れない棚などに置くわけもない、これはそれほどの物でないのであるから、源氏は見てもよいと許した。中将は少しずつ読んで見て言う。「いろんなのがありますね」 自身の想像だけで、だれとか彼とか筆者を当てようとするのであった。上手(じょうず)に言い当てるのもある、全然見当違いのことを、それであろうと深く追究したりするのもある。そんな時に源氏はおかしく思いながらあまり相手にならぬようにして、そして上手に皆を中将から取り返してしまった。「あなたこそ女の手紙はたくさん持っているでしょう。少し見せてほしいものだ。そのあとなら棚のを全部見せてもいい」「あなたの御覧になる価値のある物はないでしょうよ」 こんな事から頭中将は女についての感想を言い出した。「これならば完全だ、欠点がないという女は少ないものであると私は今やっと気がつきました。ただ上(うわ)っつらな感情で達者な手紙を書いたり、こちらの言うことに理解を持っているような利巧(りこう)らしい人はずいぶんあるでしょうが、しかもそこを長所として取ろうとすれば、きっと合格点にはいるという者はなかなかありません。自分が少し知っていることで得意になって、ほかの人を軽蔑(けいべつ)することのできる厭味(いやみ)な女が多いんですよ。親がついていて、大事にして、深窓に育っているうちは、その人の片端だけを知って男は自分の想像で十分補って恋をすることになるというようなこともあるのですね。顔がきれいで、娘らしくおおようで、そしてほかに用がないのですから、そんな娘には一つくらいの芸の上達が望めないこともありませんからね。それができると、仲に立った人間がいいことだけを話して、欠点は隠して言わないものですから、そんな時にそれはうそだなどと、こちらも空で断定することは不可能でしょう、真実だろうと思って結婚したあとで、だんだんあらが出てこないわけはありません」 中将がこう言って歎息(たんそく)した時に、そんなありきたりの結婚失敗者ではない源氏も、何か心にうなずかれることがあるか微笑をしていた。「あなたが今言った、一つくらいの芸ができるというほどのとりえね、それもできない人があるだろうか」「そんな所へは初めからだれもだまされて行きませんよ、何もとりえのないのと、すべて完全であるのとは同じほどに少ないものでしょう。上流に生まれた人は大事にされて、欠点も目だたないで済みますから、その階級は別ですよ。中の階級の女によってはじめてわれわれはあざやかな、個性を見せてもらうことができるのだと思います。またそれから一段下の階級にはどんな女がいるのだか、まあ私にはあまり興味が持てない」 こう言って、通(つう)を振りまく中将に、源氏はもう少しその観察を語らせたく思った。「その階級の別はどんなふうにつけるのですか。上、中、下を何で決めるのですか。よい家柄でもその娘の父は不遇で、みじめな役人で貧しいのと、並み並みの身分から高官に成り上がっていて、それが得意で贅沢(ぜいたく)な生活をして、初めからの貴族に負けないふうでいる家の娘と、そんなのはどちらへ属させたらいいのだろう」 こんな質問をしている所へ、左馬頭(さまのかみ)と藤式部丞(とうしきぶのじょう)とが、源氏の謹慎日を共にしようとして出て来た。風流男という名が通っているような人であったから、中将は喜んで左馬頭を問題の中へ引き入れた。不謹慎な言葉もそれから多く出た。「いくら出世しても、もとの家柄が家柄だから世間の思わくだってやはり違う。またもとはいい家(うち)でも逆境に落ちて、何の昔の面影もないことになってみれば、貴族的な品のいいやり方で押し通せるものではなし、見苦しいことも人から見られるわけだから、それはどちらも中の品ですよ。受領(ずりょう)といって地方の政治にばかり関係している連中の中にもまたいろいろ階級がありましてね、いわゆる中の品として恥ずかしくないのがありますよ。また高官の部類へやっとはいれたくらいの家よりも、参議にならない四位の役人で、世間からも認められていて、もとの家柄もよく、富んでのんきな生活のできている所などはかえって朗らかなものですよ。不足のない暮らしができるのですから、倹約もせず、そんな空気の家に育った娘に軽蔑(けいべつ)のできないものがたくさんあるでしょう。宮仕えをして思いがけない幸福のもとを作ったりする例も多いのですよ」 左馬頭がこう言う。「それではまあ何でも金持ちでなければならないんだね」 と源氏は笑っていた。「あなたらしくないことをおっしゃるものじゃありませんよ」 中将はたしなめるように言った。左馬頭はなお話し続けた。「家柄も現在の境遇も一致している高貴な家のお嬢さんが凡庸であった場合、どうしてこんな人ができたのかと情けないことだろうと思います。そうじゃなくて地位に相応なすぐれたお嬢さんであったら、それはたいして驚きませんね。当然ですもの。私らにはよくわからない社会のことですから上の品は省くことにしましょう。こんなこともあります。世間からはそんな家のあることなども無視されているような寂しい家に、思いがけない娘が育てられていたとしたら、発見者は非常にうれしいでしょう。意外であったということは十分に男の心を引く力になります。父親がもういいかげん年寄りで、醜く肥(ふと)った男で、風采(ふうさい)のよくない兄を見ても、娘は知れたものだと軽蔑している家庭に、思い上がった娘がいて、歌も上手であったりなどしたら、それは本格的なものではないにしても、ずいぶん興味が持てるでしょう。完全な女の選にははいりにくいでしょうがね」 と言いながら、同意を促すように式部丞のほうを見ると、自身の妹たちが若い男の中で相当な評判になっていることを思って、それを暗に言っているのだと取って、式部丞は何も言わなかった。そんなに男の心を引く女がいるであろうか、上の品にはいるものらしい女の中にだって、そんな女はなかなか少ないものだと自分にはわかっているがと源氏は思っているらしい。柔らかい白い着物を重ねた上に、袴(はかま)は着けずに直衣(のうし)だけをおおように掛けて、からだを横にしている源氏は平生よりもまた美しくて、女性であったらどんなにきれいな人だろうと思われた。この人の相手には上の上の品の中から選んでも飽き足りないことであろうと見えた。「ただ世間の人として見れば無難でも、実際自分の妻にしようとすると、合格するものは見つからないものですよ。男だって官吏になって、お役所のお勤めというところまでは、だれもできますが、実際適所へ適材が行くということはむずかしいものですからね。しかしどんなに聡明(そうめい)な人でも一人や二人で政治はできないのですから、上官は下僚に助けられ、下僚は上に従って、多数の力で役所の仕事は済みますが、一家の主婦にする人を選ぶのには、ぜひ備えさせねばならぬ資格がいろいろと幾つも必要なのです。これがよくてもそれには適しない。少しは譲歩してもまだなかなか思うような人はない。世間の多数の男も、いろいろな女の関係を作るのが趣味ではなくても、生涯(しょうがい)の妻を捜す心で、できるなら一所懸命になって自分で妻の教育のやり直しをしたりなどする必要のない女はないかとだれも思うのでしょう。必ずしも理想に近い女ではなくても、結ばれた縁に引かれて、それと一生を共にする、そんなのはまじめな男に見え、また捨てられない女も世間体がよいことになります。しかし世間を見ると、そう都合よくはいっていませんよ。お二方のような貴公子にはまして対象になる女があるものですか。私などの気楽な階級の者の中にでも、これと打ち込んでいいのはありませんからね。見苦しくもない娘で、それ相応な自重心を持っていて、手紙を書く時には蘆手(あしで)のような簡単な文章を上手に書き、墨色のほのかな文字で相手を引きつけて置いて、もっと確かな手紙を書かせたいと男をあせらせて、声が聞かれる程度に接近して行って話そうとしても、息よりも低い声で少ししかものを言わないというようなのが、男の正しい判断を誤らせるのですよ。なよなよとしていて優し味のある女だと思うと、あまりに柔順すぎたりして、またそれが才気を見せれば多情でないかと不安になります。そんなことは選定の最初の関門ですよ。妻に必要な資格は家庭を預かることですから、文学趣味とかおもしろい才気などはなくてもいいようなものですが、まじめ一方で、なりふりもかまわないで、額髪(ひたいがみ)をうるさがって耳の後ろへはさんでばかりいる、ただ物質的な世話だけを一所懸命にやいてくれる、そんなのではね。お勤めに出れば出る、帰れば帰るで、役所のこと、友人や先輩のことなどで話したいことがたくさんあるんですから、それは他人には言えません。理解のある妻に話さないではつまりません。この話を早く聞かせたい、妻の意見も聞いて見たい、こんなことを思っているとそとででも独笑(ひとりえみ)が出ますし、一人で涙ぐまれもします。また自分のことでないことに公憤を起こしまして、自分の心にだけ置いておくことに我慢のできぬような時、けれども自分の妻はこんなことのわかる女でないのだと思うと、横を向いて一人で思い出し笑いをしたり、かわいそうなものだなどと独言(ひとりごと)を言うようになります。そんな時に何なんですかと突っ慳貪(けんどん)に言って自分の顔を見る細君などはたまらないではありませんか。ただ一概に子供らしくておとなしい妻を持った男はだれでもよく仕込むことに苦心するものです。たよりなくは見えても次第に養成されていく妻に多少の満足を感じるものです。一緒(いっしょ)にいる時は可憐さが不足を補って、それでも済むでしょうが、家を離れている時に用事を言ってやりましても何ができましょう。遊戯も風流も主婦としてすることも自発的には何もできない、教えられただけの芸を見せるにすぎないような女に、妻としての信頼を持つことはできません。ですからそんなのもまただめです。平生はしっくりといかぬ夫婦仲で、淡い憎しみも持たれる女で、何かの場合によい妻であることが痛感されるのもあります」 こんなふうな通(つう)な左馬頭にも決定的なことは言えないと見えて、深い歎息(ためいき)をした。「ですからもう階級も何も言いません。容貌(きりょう)もどうでもいいとします。片よった性質でさえなければ、まじめで素直な人を妻にすべきだと思います。その上に少し見識でもあれば、満足して少しの欠点はあってもよいことにするのですね。安心のできる点が多ければ、趣味の教育などはあとからできるものですよ。上品ぶって、恨みを言わなければならぬ時も知らぬ顔で済ませて、表面は賢女らしくしていても、そんな人は苦しくなってしまうと、凄文句(すごもんく)や身にしませる歌などを書いて、思い出してもらえる材料にそれを残して、遠い郊外とか、まったく世間と離れた海岸とかへ行ってしまいます。子供の時に女房などが小説を読んでいるのを聞いて、そんなふうの女主人公に同情したものでしてね、りっぱな態度だと涙までもこぼしたものです。今思うとそんな女のやり方は軽佻(けいちょう)で、わざとらしい。自分を愛していた男を捨てて置いて、その際にちょっとした恨めしいことがあっても、男の愛を信じないように家を出たりなどして、無用の心配をかけて、そうして男をためそうとしているうちに取り返しのならぬはめに至ります。いやなことです。りっぱな態度だなどとほめたてられると、図に乗ってどうかすると尼なんかにもなります。その時はきたない未練は持たずに、すっかり恋愛を清算した気でいますが、まあ悲しい、こんなにまであきらめておしまいになってなどと、知った人が訪問して言い、真底から憎くはなっていない男が、それを聞いて泣いたという話などが聞こえてくると、召使や古い女房などが、殿様はあんなにあなたを思っていらっしゃいますのに、若いおからだを尼になどしておしまいになって惜しい。こんなことを言われる時、短くして後ろ梳(ず)きにしてしまった額髪に手が行って、心細い気になると自然に物思いをするようになります。忍んでももう涙を一度流せばあとは始終泣くことになります。御弟子(みでし)になった上でこんなことでは仏様も未練をお憎みになるでしょう。俗であった時よりもそんな罪は深くて、かえって地獄へも落ちるように思われます。また夫婦の縁が切れずに、尼にはならずに、良人(おっと)に連れもどされて来ても、自分を捨てて家出をした妻であることを良人に忘れてもらうことはむずかしいでしょう。悪くてもよくてもいっしょにいて、どんな時もこんな時も許し合って暮らすのがほんとうの夫婦でしょう。一度そんなことがあったあとでは真実の夫婦愛がかえってこないものです。また男の愛がほんとうにさめている場合に家出をしたりすることは愚かですよ。恋はなくなっていても妻であるからと思っていっしょにいてくれた男から、これを機会に離縁を断行されることにもなります。なんでも穏やかに見て、男にほかの恋人ができた時にも、全然知らぬ顔はせずに感情を傷つけない程度の怨(うら)みを見せれば、それでまた愛を取り返すことにもなるものです。浮気(うわき)な習慣は妻次第でなおっていくものです。あまりに男に自由を与えすぎる女も、男にとっては気楽で、その細君の心がけがかわいく思われそうでありますが、しかしそれもですね、ほんとうは感心のできかねる妻の態度です。つながれない船は浮き歩くということになるじゃありませんか、ねえ」 中将はうなずいた。「現在の恋人で、深い愛着を覚えていながらその女の愛に信用が持てないということはよくない。自身の愛さえ深ければ女のあやふやな心持ちも直して見せることができるはずだが、どうだろうかね。方法はほかにありませんよ。長い心で見ていくだけですね」 と頭中将(とうのちゅうじょう)は言って、自分の妹と源氏の中はこれに当たっているはずだと思うのに、源氏が目を閉じたままで何も言わぬのを、物足らずも口惜(くちお)しくも思った。左馬頭(さまのかみ)は女の品定めの審判者であるというような得意な顔をしていた。中将は左馬頭にもっと語らせたい心があってしきりに相槌(あいづち)を打っているのであった。「まあほかのことにして考えてごらんなさい。指物師(さしものし)がいろいろな製作をしましても、一時的な飾り物で、決まった形式を必要としないものは、しゃれた形をこしらえたものなどに、これはおもしろいと思わせられて、いろいろなものが、次から次へ新しい物がいいように思われますが、ほんとうにそれがなければならない道具というような物を上手(じょうず)にこしらえ上げるのは名人でなければできないことです。また絵所(えどころ)に幾人も画家がいますが、席上の絵の描(か)き手に選ばれておおぜいで出ます時は、どれがよいのか悪いのかちょっとわかりませんが、非写実的な蓬莱山(ほうらいさん)とか、荒海の大魚とか、唐(から)にしかいない恐ろしい獣の形とかを描く人は、勝手ほうだいに誇張したもので人を驚かせて、それは実際に遠くてもそれで通ります。普通の山の姿とか、水の流れとか、自分たちが日常見ている美しい家や何かの図を写生的におもしろく混ぜて描き、われわれの近くにあるあまり高くない山を描き、木をたくさん描き、静寂な趣を出したり、あるいは人の住む邸(やしき)の中を忠実に描くような時に上手(じょうず)と下手(へた)の差がよくわかるものです。字でもそうです。深味がなくて、あちこちの線を長く引いたりするのに技巧を用いたものは、ちょっと見がおもしろいようでも、それと比べてまじめに丁寧に書いた字で見栄(みば)えのせぬものも、二度目によく比べて見れば技巧だけで書いた字よりもよく見えるものです。ちょっとしたことでもそうなんです、まして人間の問題ですから、技巧でおもしろく思わせるような人には永久の愛が持てないと私は決めています。好色がましい多情な男にお思いになるかもしれませんが、以前のことを少しお話しいたしましょう」 と言って、左馬頭は膝(ひざ)を進めた。源氏も目をさまして聞いていた。中将は左馬頭の見方を尊重するというふうを見せて、頬杖(ほおづえ)をついて正面から相手を見ていた。坊様が過去未来の道理を説法する席のようで、おかしくないこともないのであるが、この機会に各自の恋の秘密を持ち出されることになった。「ずっと前で、まだつまらぬ役をしていた時です。私に一人の愛人がございました。容貌(ようぼう)などはとても悪い女でしたから、若い浮気(うわき)な心には、この人とだけで一生を暮らそうとは思わなかったのです。妻とは思っていましたが物足りなくて外に情人も持っていました。それでとても嫉妬(しっと)をするものですから、いやで、こんなふうでなく穏やかに見ていてくれればよいのにと思いながらも、あまりにやかましく言われますと、自分のような者をどうしてそんなにまで思うのだろうとあわれむような気になる時もあって、自然身持ちが修まっていくようでした。この女というのは、自身にできぬものでも、この人のためにはと努力してかかるのです。教養の足りなさも自身でつとめて補って、恥のないようにと心がけるたちで、どんなにも行き届いた世話をしてくれまして、私の機嫌(きげん)をそこねまいとする心から勝ち気もあまり表面に出さなくなり、私だけには柔順な女になって、醜い容貌(きりょう)なんぞも私にきらわれまいとして化粧に骨を折りますし、この顔で他人に逢(あ)っては、良人(おっと)の不名誉になると思っては、遠慮して来客にも近づきませんし、とにかく賢妻にできていましたから、同棲(どうせい)しているうちに利巧(りこう)さに心が引かれてもいきましたが、ただ一つの嫉妬(しっと)癖、それだけは彼女自身すらどうすることもできない厄介(やっかい)なものでした。当時私はこう思ったのです。とにかくみじめなほど私に参っている女なんだから、懲らすような仕打ちに出ておどして嫉妬(やきもちやき)を改造してやろう、もうその嫉妬ぶりに堪えられない、いやでならないという態度に出たら、これほど自分を愛している女なら、うまく自分の計画は成功するだろうと、そんな気で、ある時にわざと冷酷に出まして、例のとおり女がおこり出している時、『こんなあさましいことを言うあなたなら、どんな深い縁で結ばれた夫婦の中でも私は別れる決心をする。この関係を破壊してよいのなら、今のような邪推でも何でももっとするがいい。将来まで夫婦でありたいなら、少々つらいことはあっても忍んで、気にかけないようにして、そして嫉妬のない女になったら、私はまたどんなにあなたを愛するかしれない、人並みに出世してひとかどの官吏になる時分にはあなたがりっぱな私の正夫人でありうるわけだ』などと、うまいものだと自分で思いながら利己的な主張をしたものですね。女は少し笑って、『あなたの貧弱な時代を我慢して、そのうち出世もできるだろうと待っていることは、それは待ち遠しいことであっても、私は苦痛とも思いません。あなたの多情さを辛抱(しんぼう)して、よい良人になってくださるのを待つことは堪えられないことだと思いますから、そんなことをお言いになることになったのは別れる時になったわけです』そう口惜(くちお)しそうに言ってこちらを憤慨させるのです。女も自制のできない性質で、私の手を引き寄せて一本の指にかみついてしまいました。私は『痛い痛い』とたいそうに言って、『こんな傷までもつけられた私は社会へ出られない。あなたに侮辱された小役人はそんなことではいよいよ人並みに上がってゆくことはできない。私は坊主にでもなることにするだろう』などとおどして、『じゃあこれがいよいよ別れだ』と言って、指を痛そうに曲げてその家を出て来たのです。
『手を折りて相見しことを数ふればこれ一つやは君がうきふし
 言いぶんはないでしょう』と言うと、さすがに泣き出して、
『うき節を心一つに数へきてこや君が手を別るべきをり』
 反抗的に言ったりもしましたが、本心ではわれわれの関係が解消されるものでないことをよく承知しながら、幾日も幾日も手紙一つやらずに私は勝手(かって)な生活をしていたのです。加茂(かも)の臨時祭りの調楽(ちょうがく)が御所であって、更(ふ)けて、それは霙(みぞれ)が降る夜なのです。皆が退散する時に、自分の帰って行く家庭というものを考えるとその女の所よりないのです。御所の宿直室で寝るのもみじめだし、また恋を風流遊戯にしている局(つぼね)の女房を訪(たず)ねて行くことも寒いことだろうと思われるものですから、どう思っているのだろうと様子も見がてらに雪の中を、少しきまりが悪いのですが、こんな晩に行ってやる志で女の恨みは消えてしまうわけだと思って、はいって行くと、暗い灯(ひ)を壁のほうに向けて据(す)え、暖かそうな柔らかい、綿のたくさんはいった着物を大きな炙(あぶ)り籠(かご)に掛けて、私が寝室へはいる時に上げる几帳(きちょう)のきれも上げて、こんな夜にはきっと来るだろうと待っていたふうが見えます。そう思っていたのだと私は得意になりましたが、妻自身はいません。何人かの女房だけが留守(るす)をしていまして、父親の家へちょうどこの晩移って行ったというのです。艶(えん)な歌も詠(よ)んで置かず、気のきいた言葉も残さずに、じみにすっと行ってしまったのですから、つまらない気がして、やかましく嫉妬をしたのも私にきらわせるためだったのかもしれないなどと、むしゃくしゃするものですからありうべくもないことまで忖度(そんたく)しましたものです。しかし考えてみると用意してあった着物なども平生以上によくできていますし、そういう点では実にありがたい親切が見えるのです。自分と別れた後のことまでも世話していったのですからね、彼女がどうして別れうるものかと私は慢心して、それからのち手紙で交渉を始めましたが、私へ帰る気がないでもないようだし、まったく知れない所へ隠れてしまおうともしませんし、あくまで反抗的態度を取ろうともせず、『前のようなふうでは我慢ができない、すっかり生活の態度を変えて、一夫一婦の道を取ろうとお言いになるのなら』と言っているのです。そんなことを言っても負けて来るだろうという自信を持って、しばらく懲らしてやる気で、一婦主義になるとも言わず、話を長引かせていますうちに、非常に精神的に苦しんで死んでしまいましたから、私は自分が責められてなりません。家の妻というものは、あれほどの者でなければならないと今でもその女が思い出されます。風流ごとにも、まじめな問題にも話し相手にすることができましたし、また家庭の仕事はどんなことにも通じておりました。染め物の立田(たつた)姫にもなれたし、七夕(たなばた)の織姫にもなれたわけです」 と語った左馬頭は、いかにも亡(な)き妻が恋しそうであった。「技術上の織姫でなく、永久の夫婦の道を行っている七夕姫だったらよかったですね。立田姫もわれわれには必要な神様だからね。男にまずい服装をさせておく細君はだめですよ。そんな人が早く死ぬんだから、いよいよ良妻は得がたいということになる」 中将は指をかんだ女をほめちぎった。「その時分にまたもう一人の情人がありましてね、身分もそれは少しいいし、才女らしく歌を詠(よ)んだり、達者に手紙を書いたりしますし、音楽のほうも相当なものだったようです。感じの悪い容貌(きりょう)でもありませんでしたから、やきもち焼きのほうを世話女房にして置いて、そこへはおりおり通って行ったころにはおもしろい相手でしたよ。あの女が亡くなりましたあとでは、いくら今さら愛惜しても死んだものはしかたがなくて、たびたびもう一人の女の所へ行くようになりますと、なんだか体裁屋で、風流女を標榜(ひょうぼう)している点が気に入らなくて、一生の妻にしてもよいという気はなくなりました。あまり通わなくなったころに、もうほかに恋愛の相手ができたらしいのですね、十一月ごろのよい月の晩に、私が御所から帰ろうとすると、ある殿上役人が来て私の車へいっしょに乗りました。私はその晩は父の大納言(だいなごん)の家へ行って泊まろうと思っていたのです。途中でその人が、『今夜私を待っている女の家があって、そこへちょっと寄って行ってやらないでは気が済みませんから』と言うのです。私の女の家は道筋に当たっているのですが、こわれた土塀(どべい)から池が見えて、庭に月のさしているのを見ると、私も寄って行ってやっていいという気になって、その男の降りた所で私も降りたものです。その男のはいって行くのはすなわち私の行こうとしている家なのです。初めから今日の約束があったのでしょう。男は夢中のようで、のぼせ上がったふうで、門から近い廊(ろう)の室の縁側に腰を掛けて、気どったふうに月を見上げているんですね。それは実際白菊が紫をぼかした庭へ、風で紅葉(もみじ)がたくさん降ってくるのですから、身にしむように思うのも無理はないのです。男は懐中から笛を出して吹きながら合い間に『飛鳥井(あすかゐ)に宿りはすべし蔭(かげ)もよし』などと歌うと、中ではいい音のする倭琴(やまとごと)をきれいに弾(ひ)いて合わせるのです。相当なものなんですね。律の調子は女の柔らかに弾くのが御簾(みす)の中から聞こえるのもはなやかな気のするものですから、明るい月夜にはしっくり合っています。男はたいへんおもしろがって、琴を弾いている所の前へ行って、『紅葉の積もり方を見るとだれもおいでになった様子はありませんね。あなたの恋人はなかなか冷淡なようですね』などといやがらせを言っています。菊を折って行って、『琴の音も菊もえならぬ宿ながらつれなき人を引きやとめける。だめですね』などと言ってまた『いい聞き手のおいでになった時にはもっとうんと弾いてお聞かせなさい』こんな嫌味(いやみ)なことを言うと、女は作り声をして『こがらしに吹きあはすめる笛の音を引きとどむべき言の葉ぞなき』などと言ってふざけ合っているのです。私がのぞいていて憎らしがっているのも知らないで、今度は十三絃(げん)を派手(はで)に弾き出しました。才女でないことはありませんがきざな気がしました。遊戯的の恋愛をしている時は、宮中の女房たちとおもしろおかしく交際していて、それだけでいいのですが、時々にもせよ愛人として通って行く女がそんなふうではおもしろくないと思いまして、その晩のことを口実にして別れましたがね。この二人の女を比べて考えますと、若い時でさえもあとの風流女のほうは信頼のできないものだと知っていました。もう相当な年配になっている私は、これからはまたそのころ以上にそうした浮華なものがきらいになるでしょう。いたいたしい萩(はぎ)の露や、落ちそうな笹(ささ)の上の霰(あられ)などにたとえていいような艶(えん)な恋人を持つのがいいように今あなたがたはお思いになるでしょうが、私の年齢まで、まあ七年もすればよくおわかりになりますよ、私が申し上げておきますが、風流好みな多情な女には気をおつけなさい。三角関係を発見した時に良人(おっと)の嫉妬(しっと)で問題を起こしたりするものです」 左馬頭は二人の貴公子に忠言を呈した。例のように中将はうなずく。少しほほえんだ源氏も左馬頭の言葉に真理がありそうだと思うらしい。あるいは二つともばかばかしい話であると笑っていたのかもしれない。「私もばか者の話を一つしよう」 中将は前置きをして語り出した。「私がひそかに情人にした女というのは、見捨てずに置かれる程度のものでね、長い関係になろうとも思わずにかかった人だったのですが、馴(な)れていくとよい所ができて心が惹(ひ)かれていった。たまにしか行かないのだけれど、とにかく女も私を信頼するようになった。愛しておれば恨めしさの起こるわけのこちらの態度だがと、自分のことだけれど気のとがめる時があっても、その女は何も言わない。久しく間を置いて逢(あ)っても始終来る人といるようにするので、気の毒で、私も将来のことでいろんな約束をした。父親もない人だったから、私だけに頼らなければと思っている様子が何かの場合に見えて可憐(かれん)な女でした。こんなふうに穏やかなものだから、久しく訪(たず)ねて行かなかった時分に、ひどいことを私の妻の家のほうから、ちょうどまたそのほうへも出入りする女の知人を介して言わせたのです。私はあとで聞いたことなんだ。そんなかわいそうなことがあったとも知らず、心の中では忘れないでいながら手紙も書かず、長く行きもしないでいると、女はずいぶん心細がって、私との間に小さな子なんかもあったもんですから、煩悶(はんもん)した結果、撫子(なでしこ)の花を使いに持たせてよこしましたよ」 中将は涙ぐんでいた。「どんな手紙」 と源氏が聞いた。「なに、平凡なものですよ。『山がつの垣(かき)は荒るともをりをりに哀れはかけよ撫子の露』ってね。私はそれで行く気になって、行って見ると、例のとおり穏やかなものなんですが、少し物思いのある顔をして、秋の荒れた庭をながめながら、そのころの虫の声と同じような力のないふうでいるのが、なんだか小説のようでしたよ。『咲きまじる花は何(いづ)れとわかねどもなほ常夏(とこなつ)にしくものぞなき』子供のことは言わずに、まず母親の機嫌(きげん)を取ったのですよ。『打ち払ふ袖(そで)も露けき常夏に嵐(あらし)吹き添ふ秋も来にけり』こんな歌をはかなそうに言って、正面から私を恨むふうもありません。うっかり涙をこぼしても恥ずかしそうに紛らしてしまうのです。恨めしい理由をみずから追究して考えていくことが苦痛らしかったから、私は安心して帰って来て、またしばらく途絶えているうちに消えたようにいなくなってしまったのです。まだ生きておれば相当に苦労をしているでしょう。私も愛していたのだから、もう少し私をしっかり離さずにつかんでいてくれたなら、そうしたみじめな目に逢(あ)いはしなかったのです。長く途絶えて行かないというようなこともせず、妻の一人として待遇のしようもあったのです。撫子の花と母親の言った子もかわいい子でしたから、どうかして捜し出したいと思っていますが、今に手がかりがありません。これはさっきの話のたよりない性質の女にあたるでしょう。素知らぬ顔をしていて、心で恨めしく思っていたのに気もつかず、私のほうではあくまでも愛していたというのも、いわば一種の片恋と言えますね。もうぼつぼつ今は忘れかけていますが、あちらではまだ忘れられずに、今でも時々はつらい悲しい思いをしているだろうと思われます。これなどは男に永久性の愛を求めようとせぬ態度に出るもので、確かに完全な妻にはなれませんね。だからよく考えれば、左馬頭のお話の嫉妬(しっと)深い女も、思い出としてはいいでしょうが、今いっしょにいる妻であってはたまらない。どうかすれば断然いやになってしまうでしょう。琴の上手(じょうず)な才女というのも浮気(うわき)の罪がありますね。私の話した女も、よく本心の見せられない点に欠陥があります。どれがいちばんよいとも言えないことは、人生の何のこともそうですがこれも同じです。何人かの女からよいところを取って、悪いところの省かれたような、そんな女はどこにもあるものですか。吉祥天女(きちじょうてんにょ)を恋人にしようと思うと、それでは仏法くさくなって困るということになるだろうからしかたがない」 中将がこう言ったので皆笑った。「式部の所にはおもしろい話があるだろう、少しずつでも聞きたいものだね」 と中将が言い出した。「私どもは下の下の階級なんですよ。おもしろくお思いになるようなことがどうしてございますものですか」 式部丞(しきぶのじょう)は話をことわっていたが、頭中将(とうのちゅうじょう)が本気になって、早く早くと話を責めるので、「どんな話をいたしましてよろしいか考えましたが、こんなことがございます。まだ文章生(もんじょうせい)時代のことですが、私はある賢女の良人(おっと)になりました。さっきの左馬頭(さまのかみ)のお話のように、役所の仕事の相談相手にもなりますし、私の処世の方法なんかについても役だつことを教えていてくれました。学問などはちょっとした博士(はかせ)などは恥ずかしいほどのもので、私なんかは学問のことなどでは、前で口がきけるものじゃありませんでした。それはある博士の家へ弟子(でし)になって通っておりました時分に、先生に娘がおおぜいあることを聞いていたものですから、ちょっとした機会をとらえて接近してしまったのです。親の博士が二人の関係を知るとすぐに杯を持ち出して白楽天の結婚の詩などを歌ってくれましたが、実は私はあまり気が進みませんでした。ただ先生への遠慮でその関係はつながっておりました。先方では私をたいへんに愛して、よく世話をしまして、夜分寝(やす)んでいる時にも、私に学問のつくような話をしたり、官吏としての心得方などを言ってくれたりいたすのです。手紙は皆きれいな字の漢文です。仮名(かな)なんか一字だって混じっておりません。よい文章などをよこされるものですから別れかねて通っていたのでございます。今でも師匠の恩というようなものをその女に感じますが、そんな細君を持つのは、学問の浅い人間や、まちがいだらけの生活をしている者にはたまらないことだとその当時思っておりました。またお二方のようなえらい貴公子方にはそんなずうずうしい先生細君なんかの必要はございません。私どもにしましても、そんなのとは反対に歯がゆいような女でも、気に入っておればそれでいいのですし、前生の縁というものもありますから、男から言えばあるがままの女でいいのでございます」 これで式部丞(しきぶのじょう)が口をつぐもうとしたのを見て、頭中将は今の話の続きをさせようとして、「とてもおもしろい女じゃないか」 と言うと、その気持ちがわかっていながら式部丞は、自身をばかにしたふうで話す。「そういたしまして、その女の所へずっと長く参らないでいました時分に、その近辺に用のございましたついでに、寄って見ますと、平生の居間の中へは入れないのです。物越しに席を作ってすわらせます。嫌味(いやみ)を言おうと思っているのか、ばかばかしい、そんなことでもすれば別れるのにいい機会がとらえられるというものだと私は思っていましたが、賢女ですもの、軽々しく嫉妬(しっと)などをするものではありません。人情にもよく通じていて恨んだりなんかもしやしません。しかも高い声で言うのです。『月来(げつらい)、風病(ふうびょう)重きに堪えかね極熱(ごくねつ)の草薬を服しました。それで私はくさいのでようお目にかかりません。物越しででも何か御用があれば承りましょう』ってもっともらしいのです。ばかばかしくて返辞ができるものですか、私はただ『承知いたしました』と言って帰ろうとしました。でも物足らず思ったのですか『このにおいのなくなるころ、お立ち寄りください』とまた大きな声で言いますから、返辞をしないで来るのは気の毒ですが、ぐずぐずもしていられません。なぜかというと草薬の蒜(ひる)なるものの臭気がいっぱいなんですから、私は逃げて出る方角を考えながら、『ささがにの振舞(ふるま)ひしるき夕暮れにひるま過ぐせと言ふがあやなき。何の口実なんだか』と言うか言わないうちに走って来ますと、あとから人を追いかけさせて返歌をくれました。『逢(あ)ふことの夜をし隔てぬ中ならばひるまも何か眩(まば)ゆからまし』というのです。歌などは早くできる女なんでございます」 式部丞の話はしずしずと終わった。貴公子たちはあきれて、「うそだろう」 と爪弾(つまはじ)きをして見せて、式部をいじめた。「もう少しよい話をしたまえ」「これ以上珍しい話があるものですか」 式部丞は退(さが)って行った。「総体、男でも女でも、生かじりの者はそのわずかな知識を残らず人に見せようとするから困るんですよ。三史五経の学問を始終引き出されてはたまりませんよ。女も人間である以上、社会百般のことについてまったくの無知識なものはないわけです。わざわざ学問はしなくても、少し才のある人なら、耳からでも目からでもいろいろなことは覚えられていきます。自然男の知識に近い所へまでいっている女はつい漢字をたくさん書くことになって、女どうしで書く手紙にも半分以上漢字が混じっているのを見ると、いやなことだ、あの人にこの欠点がなければという気がします。書いた当人はそれほどの気で書いたのではなくても、読む時に音が強くて、言葉の舌ざわりがなめらかでなく嫌味(いやみ)になるものです。これは貴婦人もするまちがった趣味です。歌詠(よ)みだといわれている人が、あまりに歌にとらわれて、むずかしい故事なんかを歌の中へ入れておいて、そんな相手になっている暇のない時などに詠(よ)みかけてよこされるのはいやになってしまうことです、返歌をせねば礼儀でなし、またようしないでいては恥だし困ってしまいますね。宮中の節会(せちえ)の日なんぞ、急いで家を出る時は歌も何もあったものではありません。そんな時に菖蒲(しょうぶ)に寄せた歌が贈られる、九月の菊の宴に作詩のことを思って一所懸命になっている時に、菊の歌。こんな思いやりのないことをしないでも場合さえよければ、真価が買ってもらえる歌を、今贈っては目にも留めてくれないということがわからないでよこしたりされると、ついその人が軽蔑(けいべつ)されるようになります。何にでも時と場合があるのに、それに気がつかないほどの人間は風流ぶらないのが無難ですね。知っていることでも知らぬ顔をして、言いたいことがあっても機会を一、二度ははずして、そのあとで言えばよいだろうと思いますね」 こんなことがまた左馬頭(さまのかみ)によって言われている間にも、源氏は心の中でただ一人の恋しい方のことを思い続けていた。藤壺(ふじつぼ)の宮は足りない点もなく、才気の見えすぎる方でもないりっぱな貴女(きじょ)であるとうなずきながらも、その人を思うと例のとおりに胸が苦しみでいっぱいになった。いずれがよいのか決められずに、ついには筋の立たぬものになって朝まで話し続けた。 やっと今日は天気が直った。源氏はこんなふうに宮中にばかりいることも左大臣家の人に気の毒になってそこへ行った。一糸の乱れも見えぬというような家であるから、こんなのがまじめということを第一の条件にしていた、昨夜の談話者たちには気に入るところだろうと源氏は思いながらも、今も初めどおりに行儀をくずさぬ、打ち解けぬ夫人であるのを物足らず思って、中納言の君、中務(なかつかさ)などという若いよい女房たちと冗談(じょうだん)を言いながら、暑さに部屋着だけになっている源氏を、その人たちは美しいと思い、こうした接触が得られる幸福を覚えていた。大臣も娘のいるほうへ出かけて来た。部屋着になっているのを知って、几帳(きちょう)を隔てた席について話そうとするのを、「暑いのに」 と源氏が顔をしかめて見せると、女房たちは笑った。「静かに」 と言って、脇息(きょうそく)に寄りかかった様子にも品のよさが見えた。 暗くなってきたころに、「今夜は中神のお通り路(みち)になっておりまして、御所からすぐにここへ来てお寝(やす)みになってはよろしくございません」 という、源氏の家従たちのしらせがあった。「そう、いつも中神は避けることになっているのだ。しかし二条の院も同じ方角だから、どこへ行ってよいかわからない。私はもう疲れていて寝てしまいたいのに」 そして源氏は寝室にはいった。「このままになすってはよろしくございません」 また家従が言って来る。紀伊守(きいのかみ)で、家従の一人である男の家のことが上申される。「中川辺でございますがこのごろ新築いたしまして、水などを庭へ引き込んでございまして、そこならばお涼しかろうと思います」「それは非常によい。からだが大儀だから、車のままではいれる所にしたい」 と源氏は言っていた。隠れた恋人の家は幾つもあるはずであるが、久しぶりに帰ってきて、方角除(よ)けにほかの女の所へ行っては夫人に済まぬと思っているらしい。呼び出して泊まりに行くことを紀伊守に言うと、承知はして行ったが、同輩のいる所へ行って、「父の伊予守――伊予は太守の国で、官名は介(すけ)になっているが事実上の長官である――の家のほうにこのごろ障(さわ)りがありまして、家族たちが私の家へ移って来ているのです。もとから狭い家なんですから失礼がないかと心配です」と迷惑げに言ったことがまた源氏の耳にはいると、「そんなふうに人がたくさんいる家がうれしいのだよ、女の人の居所が遠いような所は夜がこわいよ。伊予守の家族のいる部屋の几帳(きちょう)の後ろでいいのだからね」 冗談(じょうだん)混じりにまたこう言わせたものである。「よいお泊まり所になればよろしいが」 と言って、紀伊守は召使を家へ走らせた。源氏は微行(しのび)で移りたかったので、まもなく出かけるのに大臣へも告げず、親しい家従だけをつれて行った。あまりに急だと言って紀伊守がこぼすのを他の家従たちは耳に入れないで、寝殿(しんでん)の東向きの座敷を掃除(そうじ)させて主人へ提供させ、そこに宿泊の仕度(したく)ができた。庭に通した水の流れなどが地方官級の家としては凝(こ)ってできた住宅である。わざと田舎(いなか)の家らしい柴垣(しばがき)が作ってあったりして、庭の植え込みなどもよくできていた。涼しい風が吹いて、どこでともなく虫が鳴き、蛍(ほたる)がたくさん飛んでいた。源氏の従者たちは渡殿(わたどの)の下をくぐって出て来る水の流れに臨んで酒を飲んでいた。紀伊守が主人をよりよく待遇するために奔走している時、一人でいた源氏は、家の中をながめて、前夜の人たちが階級を三つに分けたその中(ちゅう)の品の列にはいる家であろうと思い、その話を思い出していた。思い上がった娘だという評判の伊予守の娘、すなわち紀伊守の妹であったから、源氏は初めからそれに興味を持っていて、どの辺の座敷にいるのであろうと物音に耳を立てていると、この座敷の西に続いた部屋で女の衣摺(きぬず)れが聞こえ、若々しい、媚(なま)めかしい声で、しかもさすがに声をひそめてものを言ったりしているのに気がついた。わざとらしいが悪い感じもしなかった。初めその前の縁の格子(こうし)が上げたままになっていたのを、不用意だといって紀伊守がしかって、今は皆戸がおろされてしまったので、その室の灯影(ほかげ)が、襖子(からかみ)の隙間(すきま)から赤くこちらへさしていた。源氏は静かにそこへ寄って行って中が見えるかと思ったが、それほどの隙間はない。しばらく立って聞いていると、それは襖子の向こうの中央の間に集まってしているらしい低いさざめきは、源氏自身が話題にされているらしい。「まじめらしく早く奥様をお持ちになったのですからお寂しいわけですわね。でもずいぶん隠れてお通いになる所があるんですって」 こんな言葉にも源氏ははっとした。自分の作っているあるまじい恋を人が知って、こうした場合に何とか言われていたらどうだろうと思ったのである。でも話はただ事ばかりであったから皆を聞こうとするほどの興味が起こらなかった。式部卿(しきぶきょう)の宮の姫君に朝顔を贈った時の歌などを、だれかが得意そうに語ってもいた。行儀がなくて、会話の中に節をつけて歌を入れたがる人たちだ、中の品がおもしろいといっても自分には我慢のできぬこともあるだろうと源氏は思った。 紀伊守が出て来て、灯籠(とうろう)の数をふやさせたり、座敷の灯(ひ)を明るくしたりしてから、主人には遠慮をして菓子だけを献じた。「わが家はとばり帳(ちょう)をも掛けたればって歌ね、大君来ませ婿にせんってね、そこへ気がつかないでは主人の手落ちかもしれない」「通人でない主人でございまして、どうも」 紀伊守は縁側でかしこまっていた。源氏は縁に近い寝床で、仮臥(かりね)のように横になっていた。随行者たちももう寝たようである。紀伊守は愛らしい子供を幾人も持っていた。御所の侍童を勤めて源氏の知った顔もある。縁側などを往来(ゆきき)する中には伊予守の子もあった。何人かの中に特別に上品な十二、三の子もある。どれが子で、どれが弟かなどと源氏は尋ねていた。「ただ今通りました子は、亡(な)くなりました衛門督(えもんのかみ)の末の息子(むすこ)で、かわいがられていたのですが、小さいうちに父親に別れまして、姉の縁でこうして私の家にいるのでございます。将来のためにもなりますから、御所の侍童を勤めさせたいようですが、それも姉の手だけでははかばかしく運ばないのでございましょう」 と紀伊守が説明した。「あの子の姉さんが君の継母なんだね」「そうでございます」「似つかわしくないお母さんを持ったものだね。その人のことは陛下もお聞きになっていらっしって、宮仕えに出したいと衛門督が申していたが、その娘はどうなったのだろうって、いつかお言葉があった。人生はだれがどうなるかわからないものだね」 老成者らしい口ぶりである。「不意にそうなったのでございます。まあ人というものは昔も今も意外なふうにも変わってゆくものですが、その中でも女の運命ほどはかないものはございません」 などと紀伊守は言っていた。「伊予介は大事にするだろう。主君のように思うだろうな」「さあ。まあ私生活の主君でございますかな。好色すぎると私はじめ兄弟はにがにがしがっております」「だって君などのような当世男に伊予介は譲ってくれないだろう。あれはなかなか年は寄ってもりっぱな風采(ふうさい)を持っているのだからね」 などと話しながら、「その人どちらにいるの」「皆下屋(しもや)のほうへやってしまったのですが、間にあいませんで一部分だけは残っているかもしれません」 と紀伊守は言った。 深く酔った家従たちは皆夏の夜を板敷で仮寝してしまったのであるが、源氏は眠れない、一人臥(ね)をしていると思うと目がさめがちであった。この室の北側の襖子(からかみ)の向こうに人のいるらしい音のする所は紀伊守の話した女のそっとしている室であろうと源氏は思った。かわいそうな女だとその時から思っていたのであったから、静かに起きて行って襖子越しに物声を聞き出そうとした。その弟の声で、「ちょいと、どこにいらっしゃるの」 と言う。少し涸(か)れたきれいな声である。「私はここで寝(やす)んでいるの。お客様はお寝みになったの。ここと近くてどんなに困るかと思っていたけれど、まあ安心した」 と、寝床から言う声もよく似ているので姉弟であることがわかった。「廂(ひさし)の室でお寝みになりましたよ。評判のお顔を見ましたよ。ほんとうにお美しい方だった」 一段声を低くして言っている。「昼だったら私ものぞくのだけれど」 睡(ね)むそうに言って、その顔は蒲団(ふとん)の中へ引き入れたらしい。もう少し熱心に聞けばよいのにと源氏は物足りない。「私は縁の近くのほうへ行って寝ます。暗いなあ」 子供は燈心を掻(か)き立てたりするものらしかった。女は襖子の所からすぐ斜(すじか)いにあたる辺で寝ているらしい。「中将はどこへ行ったの。今夜は人がそばにいてくれないと何だか心細い気がする」 低い下の室のほうから、女房が、「あの人ちょうどお湯にはいりに参りまして、すぐ参ると申しました」 と言っていた。源氏はその女房たちも皆寝静まったころに、掛鉄(かけがね)をはずして引いてみると襖子はさっとあいた。向こう側には掛鉄がなかったわけである。そのきわに几帳(きちょう)が立ててあった。ほのかな灯(ひ)の明りで衣服箱などがごたごたと置かれてあるのが見える。源氏はその中を分けるようにして歩いて行った。 小さな形で女が一人寝ていた。やましく思いながら顔を掩(おお)うた着物を源氏が手で引きのけるまで女は、さっき呼んだ女房の中将が来たのだと思っていた。「あなたが中将を呼んでいらっしゃったから、私の思いが通じたのだと思って」 と源氏の宰相中将(さいしょうのちゅうじょう)は言いかけたが、女は恐ろしがって、夢に襲われているようなふうである。「や」と言うつもりがあるが、顔に夜着がさわって声にはならなかった。「出来心のようにあなたは思うでしょう。もっともだけれど、私はそうじゃないのですよ。ずっと前からあなたを思っていたのです。それを聞いていただきたいのでこんな機会を待っていたのです。だからすべて皆前生(ぜんしょう)の縁が導くのだと思ってください」 柔らかい調子である。神様だってこの人には寛大であらねばならぬだろうと思われる美しさで近づいているのであるから、露骨に、「知らぬ人がこんな所へ」 ともののしることができない。しかも女は情けなくてならないのである。「人まちがえでいらっしゃるのでしょう」 やっと、息よりも低い声で言った。当惑しきった様子が柔らかい感じであり、可憐(かれん)でもあった。「違うわけがないじゃありませんか。恋する人の直覚であなただと思って来たのに、あなたは知らぬ顔をなさるのだ。普通の好色者がするような失礼を私はしません。少しだけ私の心を聞いていただけばそれでよいのです」 と言って、小柄な人であったから、片手で抱いて以前の襖子(からかみ)の所へ出て来ると、さっき呼ばれていた中将らしい女房が向こうから来た。「ちょいと」 と源氏が言ったので、不思議がって探り寄って来る時に、薫(た)き込めた源氏の衣服の香が顔に吹き寄ってきた。中将は、これがだれであるかも、何であるかもわかった。情けなくて、どうなることかと心配でならないが、何とも異論のはさみようがない。並み並みの男であったならできるだけの力の抵抗もしてみるはずであるが、しかもそれだって荒だてて多数の人に知らせることは夫人の不名誉になることであって、しないほうがよいのかもしれない。こう思って胸をとどろかせながら従ってきたが、源氏の中将はこの中将をまったく無視していた。初めの座敷へ抱いて行って女をおろして、それから襖子をしめて、「夜明けにお迎えに来るがいい」 と言った。中将はどう思うであろうと、女はそれを聞いただけでも死ぬほどの苦痛を味わった。流れるほどの汗になって悩ましそうな女に同情は覚えながら、女に対する例の誠実な調子で、女の心が当然動くはずだと思われるほどに言っても、女は人間の掟(おきて)に許されていない恋に共鳴してこない。「こんな御無理を承ることが現実のことであろうとは思われません。卑しい私ですが、軽蔑(けいべつ)してもよいものだというあなたのお心持ちを私は深くお恨みに思います。私たちの階級とあなた様たちの階級とは、遠く離れて別々のものなのです」 こう言って、強さで自分を征服しようとしている男を憎いと思う様子は、源氏を十分に反省さす力があった。「私はまだ女性に階級のあることも何も知らない。はじめての経験なんです。普通の多情な男のようにお取り扱いになるのを恨めしく思います。あなたの耳にも自然はいっているでしょう、むやみな恋の冒険などを私はしたこともありません。それにもかかわらず前生の因縁は大きな力があって、私をあなたに近づけて、そしてあなたからこんなにはずかしめられています。ごもっともだとあなたになって考えれば考えられますが、そんなことをするまでに私はこの恋に盲目になっています」 まじめになっていろいろと源氏は説くが、女の冷ややかな態度は変わっていくけしきもない。女は、一世の美男であればあるほど、この人の恋人になって安んじている自分にはなれない、冷血的な女だと思われてやむのが望みであると考えて、きわめて弱い人が強さをしいてつけているのは弱竹(なよたけ)のようで、さすがに折ることはできなかった。真からあさましいことだと思うふうに泣く様子などが可憐(かれん)であった。気の毒ではあるがこのままで別れたらのちのちまでも後悔が自分を苦しめるであろうと源氏は思ったのであった。 もうどんなに勝手な考え方をしても救われない過失をしてしまったと、女の悲しんでいるのを見て、「なぜそんなに私が憎くばかり思われるのですか。お嬢さんか何かのようにあなたの悲しむのが恨めしい」 と、源氏が言うと、「私の運命がまだ私を人妻にしません時、親の家の娘でございました時に、こうしたあなたの熱情で思われましたのなら、それは私の迷いであっても、他日に光明のあるようなことも思ったでございましょうが、もう何もだめでございます。私には恋も何もいりません。ですからせめてなかったことだと思ってしまってください」 と言う。悲しみに沈んでいる女を源氏ももっともだと思った。真心から慰めの言葉を発しているのであった。 鶏(とり)の声がしてきた。家従たちも起きて、「寝坊をしたものだ。早くお車の用意をせい」 そんな命令も下していた。「女の家へ方違(かたたが)えにおいでになった場合とは違いますよ。早くお帰りになる必要は少しもないじゃありませんか」 と言っているのは紀伊守であった。 源氏はもうまたこんな機会が作り出せそうでないことと、今後どうして文通をすればよいか、どうもそれが不可能らしいことで胸を痛くしていた。女を行かせようとしてもまた引き留める源氏であった。「どうしてあなたと通信をしたらいいでしょう。あくまで冷淡なあなたへの恨みも、恋も、一通りでない私が、今夜のことだけをいつまでも泣いて思っていなければならないのですか」 泣いている源氏が非常に艶(えん)に見えた。何度も鶏(とり)が鳴いた。
つれなさを恨みもはてぬしののめにとりあへぬまで驚かすらん
 あわただしい心持ちで源氏はこうささやいた。女は己(おのれ)を省みると、不似合いという晴がましさを感ぜずにいられない源氏からどんなに熱情的に思われても、これをうれしいこととすることができないのである。それに自分としては愛情の持てない良人(おっと)のいる伊予の国が思われて、こんな夢を見てはいないだろうかと考えると恐ろしかった。
身の憂(う)さを歎(なげ)くにあかで明くる夜はとり重ねても音(ね)ぞ泣かれける
 と言った。ずんずん明るくなってゆく。女は襖子(からかみ)の所へまで送って行った。奥のほうの人も、こちらの縁のほうの人も起き出して来たんでざわついた。襖子をしめてもとの席へ帰って行く源氏は、一重の襖子が越えがたい隔ての関のように思われた。 直衣(のうし)などを着て、姿を整えた源氏が縁側の高欄(こうらん)によりかかっているのが、隣室の縁低い衝立(ついたて)の上のほうから見えるのをのぞいて、源氏の美の放つ光が身の中へしみ通るように思っている女房もあった。残月のあるころで落ち着いた空の明かりが物をさわやかに照らしていた。変わったおもしろい夏の曙(あけぼの)である。だれも知らぬ物思いを、心に抱いた源氏であるから、主観的にひどく身にしむ夜明けの風景だと思った。言(こと)づて一つする便宜がないではないかと思って顧みがちに去った。 家へ帰ってからも源氏はすぐに眠ることができなかった。再会の至難である悲しみだけを自分はしているが、自由な男でない人妻のあの人はこのほかにもいろいろな煩悶(はんもん)があるはずであると思いやっていた。すぐれた女ではないが、感じのよさを十分に備えた中の品だ。だから多くの経験を持った男の言うことには敬服される点があると、品定めの夜の話を思い出していた。 このごろはずっと左大臣家に源氏はいた。あれきり何とも言ってやらないことは、女の身にとってどんなに苦しいことだろうと中川の女のことがあわれまれて、始終心にかかって苦しいはてに源氏は紀伊守を招いた。「自分の手もとへ、この間見た中納言の子供をよこしてくれないか。かわいい子だったからそばで使おうと思う。御所へ出すことも私からしてやろう」 と言うのであった。「結構なことでございます。あの子の姉に相談してみましょう」 その人が思わず引き合いに出されたことだけででも源氏の胸は鳴った。「その姉さんは君の弟を生んでいるの」「そうでもございません。この二年ほど前から父の妻になっていますが、死んだ父親が望んでいたことでないような結婚をしたと思うのでしょう。不満らしいということでございます」「かわいそうだね、評判の娘だったが、ほんとうに美しいのか」「さあ、悪くもないのでございましょう。年のいった息子(むすこ)と若い継母は親しくせぬものだと申しますから、私はその習慣に従っておりまして何も詳しいことは存じません」 と紀伊守(きいのかみ)は答えていた。 紀伊守は五、六日してからその子供をつれて来た。整った顔というのではないが、艶(えん)な風采(ふうさい)を備えていて、貴族の子らしいところがあった。そばへ呼んで源氏は打ち解けて話してやった。子供心に美しい源氏の君の恩顧を受けうる人になれたことを喜んでいた。姉のことも詳しく源氏は聞いた。返辞のできることだけは返辞をして、つつしみ深くしている子供に、源氏は秘密を打ちあけにくかった。けれども上手(じょうず)に嘘(うそ)まじりに話して聞かせると、そんなことがあったのかと、子供心におぼろげにわかればわかるほど意外であったが、子供は深い穿鑿(せんさく)をしようともしない。 源氏の手紙を弟が持って来た。女はあきれて涙さえもこぼれてきた。弟がどんな想像をするだろうと苦しんだが、さすがに手紙は読むつもりらしくて、きまりの悪いのを隠すように顔の上でひろげた。さっきからからだは横にしていたのである。手紙は長かった。終わりに、
見し夢を逢(あ)ふ夜ありやと歎(なげ)く間に目さへあはでぞ頃(ころ)も経にける
安眠のできる夜がないのですから、夢が見られないわけです。
 とあった。目もくらむほどの美しい字で書かれてある。涙で目が曇って、しまいには何も読めなくなって、苦しい思いの新しく加えられた運命を思い続けた。 翌日源氏の所から小君(こぎみ)が召された。出かける時に小君は姉に返事をくれと言った。「ああしたお手紙をいただくはずの人がありませんと申し上げればいい」 と姉が言った。「まちがわないように言っていらっしったのにそんなお返辞はできない」 そう言うのから推(お)せば秘密はすっかり弟に打ち明けられたものらしい、こう思うと女は源氏が恨めしくてならない。「そんなことを言うものじゃない。大人の言うようなことを子供が言ってはいけない。お断わりができなければお邸(やしき)へ行かなければいい」 無理なことを言われて、弟は、「呼びにおよこしになったのですもの、伺わないでは」 と言って、そのまま行った。好色な紀伊守はこの継母が父の妻であることを惜しがって、取り入りたい心から小君にも優しくしてつれて歩きもするのだった。小君が来たというので源氏は居間へ呼んだ。「昨日(きのう)も一日おまえを待っていたのに出て来なかったね。私だけがおまえを愛していても、おまえは私に冷淡なんだね」 恨みを言われて、小君は顔を赤くしていた。「返事はどこ」 小君はありのままに告げるほかに術(すべ)はなかった。「おまえは姉さんに無力なんだね、返事をくれないなんて」 そう言ったあとで、また源氏から新しい手紙が小君に渡された。「おまえは知らないだろうね、伊予の老人よりも私はさきに姉さんの恋人だったのだ。頸(くび)の細い貧弱な男だからといって、姉さんはあの不恰好(ぶかっこう)な老人を良人(おっと)に持って、今だって知らないなどと言って私を軽蔑(けいべつ)しているのだ。けれどもおまえは私の子になっておれ。姉さんがたよりにしている人はさきが短いよ」 と源氏がでたらめを言うと、小君はそんなこともあったのか、済まないことをする姉さんだと思う様子をかわいく源氏は思った。小君は始終源氏のそばに置かれて、御所へもいっしょに連れられて行ったりした。源氏は自家の衣裳係(いしょうがかり)に命じて、小君の衣服を新調させたりして、言葉どおり親代わりらしく世話をしていた。女は始終源氏から手紙をもらった。けれども弟は子供であって、不用意に自分の書いた手紙を落とすようなことをしたら、もとから不運な自分がまた正しくもない恋の名を取って泣かねばならないことになるのはあまりに自分がみじめであるという考えが根底になっていて、恋を得るということも、こちらにその人の対象になれる自信のある場合にだけあることで、自分などは光源氏の相手になれる者ではないと思う心から返事をしないのであった。ほのかに見た美しい源氏を思い出さないわけではなかったのである。真実の感情を源氏に知らせてもさて何にもなるものでないと、苦しい反省をみずから強いている女であった。源氏はしばらくの間もその人が忘られなかった。気の毒にも思い恋しくも思った。女が自分とした過失に苦しんでいる様子が目から消えない。本能のおもむくままに忍んであいに行くことも、人目の多い家であるからそのことが知れては困ることになる、自分のためにも、女のためにもと思っては煩悶(はんもん)をしていた。 例のようにまたずっと御所にいた頃、源氏は方角の障(さわ)りになる日を選んで、御所から来る途中でにわかに気がついたふうをして紀伊守の家へ来た。紀伊守は驚きながら、「前栽(せんざい)の水の名誉でございます」 こんな挨拶(あいさつ)をしていた。小君(こぎみ)の所へは昼のうちからこんな手はずにすると源氏は言ってやってあって、約束ができていたのである。 始終そばへ置いている小君であったから、源氏はさっそく呼び出した。女のほうへも手紙は行っていた。自身に逢おうとして払われる苦心は女の身にうれしいことではあったが、そうかといって、源氏の言うままになって、自己が何であるかを知らないように恋人として逢う気にはならないのである。夢であったと思うこともできる過失を、また繰り返すことになってはならぬとも思った。妄想(もうそう)で源氏の恋人気どりになって待っていることは自分にできないと女は決めて、小君が源氏の座敷のほうへ出て行くとすぐに、「あまりお客様の座敷に近いから失礼な気がする。私は少しからだが苦しくて、腰でもたたいてほしいのだから、遠い所のほうが都合がよい」 と言って、渡殿(わたどの)に持っている中将という女房の部屋(へや)へ移って行った。初めから計画的に来た源氏であるから、家従たちを早く寝させて、女へ都合を聞かせに小君をやった。小君に姉の居所がわからなかった。やっと渡殿の部屋を捜しあてて来て、源氏への冷酷な姉の態度を恨んだ。「こんなことをして、姉さん。どんなに私が無力な子供だと思われるでしょう」 もう泣き出しそうになっている。「なぜおまえは子供のくせによくない役なんかするの、子供がそんなことを頼まれてするのはとてもいけないことなのだよ」 としかって、「気分が悪くて、女房たちをそばへ呼んで介抱(かいほう)をしてもらっていますって申せばいいだろう。皆が怪しがりますよ、こんな所へまで来てそんなことを言っていて」 取りつくしまもないように姉は言うのであったが、心の中では、こんなふうに運命が決まらないころ、父が生きていたころの自分の家へ、たまさかでも源氏を迎えることができたら自分は幸福だったであろう。しいて作るこの冷淡さを、源氏はどんなにわが身知らずの女だとお思いになることだろうと思って、自身の意志でしていることであるが胸が痛いようにさすがに思われた。どうしてもこうしても人妻という束縛は解かれないのであるから、どこまでも冷ややかな態度を押し通して変えまいという気に女はなっていた。 源氏はどんなふうに計らってくるだろうと、頼みにする者が少年であることを気がかりに思いながら寝ているところへ、だめであるという報(しら)せを小君が持って来た。女のあさましいほどの冷淡さを知って源氏は言った。「私はもう自分が恥ずかしくってならなくなった」 気の毒なふうであった。それきりしばらくは何も言わない。そして苦しそうに吐息(といき)をしてからまた女を恨んだ。
帚木(ははきぎ)の心を知らでその原の道にあやなくまどひぬるかな
 今夜のこの心持ちはどう言っていいかわからない、と小君に言ってやった。女もさすがに眠れないで悶(もだ)えていたのである。それで、
数ならぬ伏屋(ふせや)におふる身のうさにあるにもあらず消ゆる帚木 という歌を弟に言わせた。小君は源氏に同情して、眠がらずに往(い)ったり来たりしているのを、女は人が怪しまないかと気にしていた。 いつものように酔った従者たちはよく眠っていたが、源氏一人はあさましくて寝入れない。普通の女と変わった意志の強さのますます明確になってくる相手が恨めしくて、もうどうでもよいとちょっとの間は思うがすぐにまた恋しさがかえってくる。「どうだろう、隠れている場所へ私をつれて行ってくれないか」「なかなか開(あ)きそうにもなく戸じまりがされていますし、女房もたくさんおります。そんな所へ、もったいないことだと思います」 と小君が言った。源氏が気の毒でたまらないと小君は思っていた。「じゃあもういい。おまえだけでも私を愛してくれ」 と言って、源氏は小君をそばに寝させた。若い美しい源氏の君の横に寝ていることが子供心に非常にうれしいらしいので、この少年のほうが無情な恋人よりもかわいいと源氏は思った。

桐壺(きりつぼ)


源氏物語


紫式部


與謝野晶子訳

桐壺(きりつぼ)

紫のかゞやく花と日の光思ひあはざることわりもなし晶子 どの天皇様の御代(みよ)であったか、女御(にょご)とか更衣(こうい)とかいわれる後宮(こうきゅう)がおおぜいいた中に、最上の貴族出身ではないが深いご寵愛(ちょうあい)を得ている人があった。最初から自分こそはという自信と、親兄弟の勢力にたのむところがあって宮中にはいった女御たちからは失敬な女としてねたまれた。その人と同等、もしくはそれより地位の低い更衣たちはまして嫉妬(しっと)の炎を燃やさないわけもなかった。夜の御殿(おとど)の宿直所(とのいどころ)からさがる朝、つづいてその人ばかりが召される夜、目に見、耳に聞いてくやしがらせた恨みのせいもあったか、からだが弱くなって、心細くなった更衣は多く実家へさがっていがちということになると、いよいよ帝(みかど)はこの人にばかり心をおひかれになるというごようすで、人がなんと批評しようとも、それにご遠慮などというものがおできにならない。ご聖徳を伝える歴史の上にも暗い影のひとところ残るようなことにもなりかねない状態になった。高官たちも殿上(てんじょう)役人たちも困って、ご覚醒(かくせい)になるのを期しながら、当分は見ぬ顔をしていたいという態度をとるほどのご寵愛ぶりであった。唐(とう)の国でもこの種類の寵姫(ちょうき)、楊家(ようか)の女の出現によって乱が醸(かも)されたなどと陰(かげ)ではいわれる。今や、この女性が一天下のわざわいだとされるにいたった。馬嵬(ばかい)の駅がいつ再現されるかもしれぬ。その人にとっては堪えがたいような苦しい雰囲気(ふんいき)の中でも、ただ深いご愛情だけをたよりにして暮していた。父の大納言(だいなごん)はもう故人であった。母の未亡人が生れのよい見識のある女で、わが娘を現代に勢力のある派手(はで)な家の娘たちにひけをとらせないよき保護者たりえた。それでも大官の後援者をもたぬ更衣は、何かの場合にいつも心細い思いをするようだった。 前生(ぜんしょう)の縁が深かったか、またもないような美しい皇子(おうじ)までがこの人からお生れになった。寵姫を母とした御子(みこ)を早くごらんになりたい思召(おぼしめ)しから、正規の日数がたつとすぐに更衣母子(おやこ)を宮中へお招きになった。小皇子は、いかなる美なるものよりも美しい顔をしておいでになった。帝の第一皇子は右大臣の娘の女御からお生れになって、重い外戚(がいせき)が背景になっていて、疑いもない未来の皇太子として世の人は尊敬をささげているが、第二の皇子の美貌(びぼう)にならぶことがおできにならぬため、それは皇家の長子としてだいじにあそばされ、これはご自身の愛子として、ひじょうにだいじがっておいでになった。更衣ははじめから普通の朝廷の女官として奉仕するほどの軽い身分ではなかった、ただ、お愛しになるあまりに、その人自身は最高の貴女といってよいほどのりっぱな女ではあったが、しじゅうおそばへお置きになろうとして、殿上で音楽その他のお催(もよお)し事をあそばすさいには、だれよりもまず先にこの人を常の御殿(おとど)へお呼びになり、またある時はお引きとめになって更衣が夜の御殿から朝の退出ができず、そのまま昼も侍(じ)しているようなことになったりして、やや軽いふうにも見られたのが、皇子のお生れになって以後、目に立って重々しくお扱いになったから、東宮(とうぐう)にも、どうかすればこの皇子をお立てになるかもしれぬと、第一の皇子のご生母の女御は疑いをもっていた。この人は帝のもっともお若い時に入内(じゅだい)した最初の女御であった。この女御がする非難と恨み言だけは無関心にしておいでになれなかった。この女御へすまないという気もじゅうぶんにもっておいでになった。帝の深い愛を信じながらも、悪くいう者と、何かの欠点を探し出そうとする者ばかりの宮中に、病身な、そして無力な家を背景としている心細い更衣は、愛されれば愛されるほど苦しみがふえるふうであった。 住んでいる御殿は御所の中の東北のすみのような桐壺(きりつぼ)であった。いくつかの女御や更衣たちの御殿の廊(ろう)を通(かよ)い路(みち)にして帝がしばしばそこへおいでになり、宿直(とのい)をする更衣があがりさがりして行く桐壺であったから、しじゅうながめていねばならぬ御殿の住人たちの恨みが量(かさ)んでいくのも道理といわねばならない。召されることがあまりつづくころは、打橋(うちはし)とか通い廊下のある戸口とかに意地の悪いしかけがされて、送り迎えをする女房たちの着物の裾(すそ)が一度で痛んでしまうようなことがあったりする。またあるときは、どうしてもそこを通らねばならぬ廊下の戸に錠(じょう)がさされてあったり、そこが通れねばこちらを行くはずの御殿の人どうしがいい合せて、桐壺の更衣の通り路をなくして辱(はずか)しめるようなことなどもしばしばあった。数えきれぬほどの苦しみを受けて、更衣が心を滅入(めい)らせているのをごらんになると、帝はいっそう憐(あわ)れを多くお加(くわ)えになって、清涼殿(せいりょうでん)につづいた後涼殿(こうりょうでん)に住んでいた更衣を外へお移しになって、桐壺の更衣へ休息室としてお与えになった。移された人の恨みはどの後宮(こうきゅう)よりもまた深くなった。 第二の皇子が三歳におなりになった時に袴着(はかまぎ)の式がおこなわれた。前にあった第一の皇子のその式に劣らぬような派手(はで)な準備の費用が宮廷から支出された。それにつけても世間はいろいろに批評をしたが、成長されるこの皇子の美貌と聰明(そうめい)さとが類のないものであったから、だれも皇子を悪く思うことはできなかった。有識者はこの天才的な美しい小皇子を見て、こんな人も人間世界に生れてくるものかとみな驚いていた。その年の夏のことである。御息所(みやすどころ)(皇子女の生母になった更衣はこう呼ばれるのである)はちょっとした病気になって、実家へさがろうとしたが、帝はおゆるしにならなかった。どこかからだが悪いということはこの人の常のことになっていたから、帝はそれほどお驚きにならずに、「もうしばらく御所で養生をしてみてからにするがよい」といっておいでになるうちにしだいに悪くなって、そうなってからほんの五六日のうちに病は重体になった。母の未亡人は泣く泣くお暇(ひま)を願って帰宅させることにした。こんな場合にはまたどんな呪詛(じゅそ)がおこなわれるかもしれない、皇子にまでわざわいをおよぼしてはとの心づかいから、皇子だけを宮中にとどめて、目立たぬように御息所だけが退出するのであった。このうえとどめることは不可能であると帝は思召(おぼしめ)して、更衣が出かけて行くところを見送ることのできぬご尊貴の御身(おんみ)のものたりなさを堪えがたく悲しんでおいでになった。 はなやかな顔だちの美人がひじょうに痩(や)せてしまって、心の中には帝とお別れしていく無限の悲しみがあったが、口へは何も出していうことのできないのがこの人の性質である。あるかないかに弱っているのをごらんになると、帝は過去も未来もまっ暗になった気があそばすのであった。泣く泣くいろいろなたのもしい将来の約束をあそばされても、更衣はお返辞もできないのである。目つきもよほどだるそうで、平生からなよなよとした人がいっそう弱々しいふうになって寝ているのであったから、これはどうなることであろうという不安が大御心(おおみこころ)を襲うた。更衣が宮中から輦車(てぐるま)で出てよいご許可の宜旨(せんじ)を役人へお下(くだ)しになったりあそばされても、また病室へお帰りになると、今行くということをおゆるしにならない。「死の旅にも同時に出るのがわれわれ二人であるとあなたも約束したのだから、私を置いて家へ行ってしまうことはできないはずだ」と、帝がおいいになると、そのお心もちのよくわかる女も、ひじょうに悲しそうにお顔を見て、「限りとて別るる道の悲しきに   いかまほしきは命なりけり 死がそれほど私に迫ってきておりませんのでしたら」 これだけのことを息も絶え絶えにいって、なお帝においいしたいことがありそうであるが、まったく気力はなくなってしまった。死ぬのであったらこのまま自分のそばで死なせたいと帝は思召したが、今日から始めるはずの祈祷(きとう)も高僧たちがうけたまわっていて、それもぜひ今夜から始めねばなりませぬというようなことも申しあげて方々から更衣の退出をうながすので、別れがたく思召しながらお帰しになった。 帝は、お胸が悲しみでいっぱいになって、お眠りになることが困難であった。帰った更衣の家へお出しになる尋(たず)ねの使いはすぐ帰って来るはずであるが、それすら返辞を聞くことが待ちどおしいであろうと仰(おお)せられた帝であるのに、お使いは、「夜半過ぎにお卒去(かくれ)になりました」といって、故大納言家の人たちの泣き騒いでいるのを見ると、力が落ちてそのまま御所へ帰って来た。 更衣の死をお聞きになった帝のお悲しみは非常で、そのまま引籠(こも)っておいでになった。その中でも忘れがたみの皇子はそばへ置いておきたく思召したが、母の忌服(きふく)中の皇子が、けがれのやかましい宮中においでになる例などはないので、更衣の実家へ退出されることになった。皇子はどんな大事があったともお知りにならず、侍女たちが泣き騒ぎ、帝のお顔にも涙が流れてばかりいるのだけをふしぎにお思いになるふうであった。父子の別れというようなことはなんでもない場合でも悲しいものであるから、この時の帝のお心もちほどお気の毒なものはなかった。 どんなに惜しい人でも、遺骸(いがい)は遺骸として扱われねばならぬ葬儀がおこなわれることになって、母の未亡人は遺骸と同時に火葬の煙になりたいと泣き焦(こ)がれていた。そして葬送の女房の車にしいて望んでいっしょに乗って愛宕(おたぎ)の野にいかめしく設けられた式場へついた時の未亡人の心はどんなに悲しかったであろう。「死んだ人を見ながら、やはり生きている人のように思われてならない私の迷(まよ)いをさますために行く必要があります」と賢そうにいっていたが、車から落ちてしまいそうに泣くので、こんなことになるのを恐れていたと女房たちは思った。 宮中からお使いが葬場へ来た。更衣に三位(み)を贈(おく)られたのである。勅使がその宣命(せんみょう)を読んだ時ほど未亡人にとって悲しいことはなかった。三位は女御に相当する位階である。生きていた日に女御ともいわせなかったことが帝には残り多く思召されて贈位をたまわったのである。こんなことででも後宮のある人々は反感をもった。同情のある人は故人の美しさ、性格のなだらかさなどで憎むことのできなかった人であると、今になって桐壺の更衣の真価を思い出していた。あまりにひどいご殊寵(しゅちょう)ぶりであったから、その当時は嫉妬を感じたのであるとそれらの人は以前のことを思っていた。やさしい同情深い女性であったのを、帝つきの女官たちはみな恋しがっていた。「なくてぞ人は恋しかりける」とは、こうした場合のことであろうと見えた。時は人の悲しみにかかわりもなく過ぎて、七日七日の仏事がつぎつぎにおこなわれる、そのたびに帝からはお弔(とむら)いの品々が下された。 愛人の死んだのちの日がたっていくにしたがって、どうしようもない寂(さび)しさばかりを帝はお覚えになるのであって、女御、更衣を宿直(とのい)に召されることも絶えてしまった。ただ涙の中のご朝夕であって、拝見する人までが湿(しめ)っぽい心になる秋であった。「死んでからまでも人の気を悪くさせるご寵愛ぶりね」などといって、右大臣の娘の弘徽殿(こきでん)の女御などは今さえも嫉妬を捨てなかった。帝は一の皇子をごらんになっても更衣の忘れがたみの皇子の恋しさばかりをお覚えになって、親しい女官や、ご自身のお乳母(めのと)などをその家へおつかわしになって若宮のようすを報告させておいでになった。 野分(のわき)ふうに風が出て肌寒(はださむ)の覚えられる日の夕方に、平生よりもいっそう故人(こじん)がお思われになって、靫負(ゆげい)の命婦(みょうぶ)という人を使いとしてお出しになった。夕月夜の美しい時刻に命婦を出かけさせて、そのまま深いもの思いをしておいでになった。以前にこうした月夜は音楽の遊びがおこなわれて、更衣はその一人に加わってすぐれた音楽者の素質を見せた。またそんな夜に詠(よ)む歌なども平凡ではなかった。彼女の幻(まぼろし)は帝のお目に立ち添ってすこしも消えない。しかしながら、どんなに濃(こ)い幻でも瞬間の現実の価値はないのである。 命婦は故大納言家について車が門から中へ引き入れられた刹那(せつな)から、もういいようのない寂しさが味わわれた。未亡人の家であるが、一人娘のために住居の外見などにもみすぼらしさがないようにと、りっぱな体裁(ていさい)を保って暮していたのであるが、子を失った女主人の無明(むみょう)の日がつづくようになってからは、しばらくのうちに庭の雑草が行儀悪く高くなった。またこのごろの野分(のわき)の風でいっそう邸内が荒れた気のするのであったが、月光だけは伸びた草にもさわらずさしこんだその南向きの座敷に命婦を招じて出て来た女主人は、すぐにもものがいえないほどまたも悲しみに胸をいっぱいにしていた。「娘を死なせました母親がよくも生きていられたものというように、運命がただ恨めしゅうございますのに、こうしたお使いがあばら家へおいでくださると、またいっそう自分がはずかしくてなりません」といって、実際堪えられないだろうと思われるほど泣く。「こちらへあがりますと、またいっそうお気の毒になりまして、魂も消えるようでございますと、先日典侍(ないしのすけ)は陛下へ申しあげていらっしゃいましたが、私のよう浅薄な人間でもほんとうに悲しさが身にしみます」といってから、しばらくして命婦は帝の仰せを伝えた。『当分夢ではないであろうかというようにばかり思われましたが、ようやくおちつくとともに、どうしようもない悲しみを感じるようになりました。こんな時はどうすればよいのか、せめて話し合う人があればいいのですが、それもありません。目立たぬようにして時々御所へ来られてはどうですか。若宮を長く見ずにいて気がかりでならないし、また若宮も悲しんでおられる人ばかりの中にいてかわいそうですから、彼を早く宮中へ入れることにして、あなたもいっしょにおいでなさい』「こういうお言葉ですが、涙にむせかえっておいでになって、しかも人に弱さを見せまいとご遠慮をなさらないでもないごようすがお気の毒で、ただ、おおよそだけをうけたまわっただけで参りました」といって、また帝のお言(こと)づてのほかのご消息を渡した。「涙でこのごろは目も暗くなっておりますが、過分な、かたじけない仰せを光明にいたしまして」 未亡人は、お文を拝見するのであった。 時がたてばすこしは寂しさもまぎれるであろうかと、そんなことをたのみにして日を送っていても、日がたてばたつほど悲しみの深くなるのは困ったことである。どうしているかとばかり思いやっている小児(こども)も、そろった両親に育てられる幸福を失ったものであるから、子を失ったあなたに、せめてその子のかわりとしてめんどうを見てやってくれることをたのむ。などこまごまと書いておありになった。   宮城野(みやぎの)の霧吹き結ぶ風の音に     小萩(はぎ)が上を思ひこそやれという御歌もあったが、未亡人は湧(わ)き出す涙がさまたげて明らかには拝見することができなかった。「長生きをするからこうした悲しい目にも会うのだと、それが世間の人の前に私をきまりわるくさせることなのでございますから、まして御所へ時々あがることなどは思いもよらぬことでございます。もったいない仰せをうかがっているのですが、私が伺候(しこう)いたしますことは今後も実行はできないでございましょう。若宮様は、やはり御父子の情というものが本能にありますものと見えて、御所へ早くおはいりになりたいごようすをお見せになりますから、私はご道理(もっとも)だとおかわいそうに思っておりますということなどは、表向きの奏上でなしに何かのおついでに申しあげてくださいませ。良人(おっと)も早く亡(な)くしますし、娘も死なせてしまいましたような不幸ずくめの私がごいっしょにおりますことは、若宮のために縁起(えんぎ)のよろしくないことと恐れ入っております。」などといった。そのうち若宮も、もうおやすみになった。「またお目ざめになりますのをお待ちして、若宮にお目にかかりまして、くわしくごようすも陛下へご報告したいのでございますが、使いの私の帰りますのをお待ちかねでもいらっしゃいますでしょうから、それでは、あまりおそくなるでございましょう」といって命婦は帰りを急いだ。「子を亡(な)くしました母親の心の、悲しい暗さがせめて一部分でも晴れますほどの話をさせていただきたいのですから、公(おおやけ)のお使いでなく、気楽なお気もちでお休みがてら、またお立ち寄りください。以前はうれしいことでよくお使いにおいでくださいましたのでしたが、こんな悲しい勅使であなたをお迎えするとはなんということでしょう。かえすがえす運命が私に長生きさせるのが苦しゅうございます。故人のことを申せば、生れました時から親たちに輝かしい未来の望みをもたせました子で、父の大納言はいよいよ危篤(きとく)になりますまで、この人を宮中へさしあげようと自分の思ったことをぜひ実現させてくれ、自分が死んだからといって今までの考えを捨てるようなことをしてはならないと、何度も何度も遺言いたしましたが、たしかな後援者なしの宮仕えは、かえって娘を不幸にするようなものではないだろうかとも思いながら、私にいたしましては、ただ遺言を守りたいばかりに陛下へさしあげましたが、過分なご寵愛を受けまして、そのお光でみすぼらしさも隠していただいて、娘はお仕えしていたのでしょうが、みなさんのご嫉妬の積っていくのが重荷になりまして、寿命で死んだとは思えませんような死に方をいたしましたのですから、陛下のあまりに深いご愛情がかえって恨めしいように、盲目的な母の愛から私は思いもいたします」 こんな話をまだ全部もいわないで未亡人は涙でむせかえってしまったりしているうちに、ますます深更(しんこう)になった。「それは陛下も仰せになります。自分の心でありながら、あまりに穏(おだ)やかでないほどの愛しようをしたのも前生(ぜんしょう)の約束で長くはいっしょにいられぬ二人であることを意識せずに感じていたのだ。自分らは恨めしい因縁(いんねん)でつながれていたのだ。自分は即位してから、だれのためにも苦痛を与えるようなことはしなかったという自信をもっていたが、あの人によって負ってならぬ女の恨みを負い、ついには何よりもたいせつなものを失って、悲しみにくれて以前よりももっと愚劣な者になっているのを思うと、自分らの前生の約束はどんなものであったか知りたいとお話しになって、湿(しめ)っぽいごようすばかりをお見せになっています」 どちらも話すことにきりがない。命婦は泣く泣く、「もうひじょうにおそいようですから、復命(ふくめい)は今晩のうちにいたしたいとぞんじますから」といって、帰る仕度(したく)をした。落ちぎわに近い月夜の空が澄みきった中を涼しい風が吹き、人の悲しみをうながすような虫の声がするのであるから帰りにくい。  鈴虫の声の限りを尽くしても    長き夜飽(あ)かず降る涙かな 車に乗ろうとして命婦はこんな歌を口ずさんだ。 「いとどしく虫の音しげき浅茅生(あさじう)に    露置き添ふる雲の上人 かえってご訪問が恨めしいと申しあげたいほどです」と未亡人は女房にいわせた。意匠を凝(こ)らせた贈物などする場合でなかったから、故人の形見(かたみ)ということにして、唐衣(からごろも)と裳(も)のひとそろえに、髪あげの用具のはいった箱を添えて贈った。 若い女房たちの更衣の死を悲しむのはむろんであるが、宮中住居をしなれていて、寂しくものたらず思われることが多く、おやさしい帝のごようすを思ったりして、若宮が早く御所へお帰りになるようにとうながすのであるが、不幸な自分がごいっしょにあがっていることも、また世間に非難の材料を与えるようなものであろうし、またそれかといって若宮とお別れしている苦痛にも堪えきれる自信がないと未亡人は思うので、けっきょく若宮の宮中入りは実行性に乏(とぼ)しかった。 御所へ帰った命婦は、まだ宵のままでご寝室へはいっておいでにならない帝を気の毒に思った。中庭の秋の花の盛りなのを愛していらっしゃるふうをあそばして、凡庸(ぼんよう)でない女房四五人をおそばに置いて話をしておいでになるのであった。このごろしじゅう帝のごらんになるものは、玄宗(げんそう)皇帝と楊貴妃(ようきひ)の恋を題材にした白楽天(はくらくてん)の長恨歌(ちょうごんか)を、亭子院(ていじのいん)が絵にあそばして、伊勢(いせ)や貫之(つらゆき)に歌をお詠(よ)ませになった巻物で、そのほか日本文学でも、支那(しな)のでも、愛人に別れた人の悲しみが歌われたものばかりを帝はお読みになった。帝は命婦にこまごまと大納言家のようすをお聞きになった。身にしむ思いを得てきたことを命婦は外へ声をはばかりながら申しあげた。未亡人のご返書を帝はごらんになる。 もったいなさをどうしまついたしてよろしゅうございますやら。こうした仰せをうけたまわりましても、愚か者はただ悲しい悲しいとばかり思われるのでございます。  荒き風防ぎし蔭の枯れしより    小萩(こはぎ)が上ぞしづ心無きというような、歌の価値の疑わしいようなものも書かれてあるが、悲しみのためにおちつかない心で詠んでいるのであるからと寛大にごらんになった。帝は、ある程度まではおさえていねばならぬ悲しみであると思召すが、それがご困難であるらしい。はじめて桐壺の更衣のあがって来たころのことなどまでが、お心の表面に浮びあがってきてはいっそう暗い悲しみに帝をお誘いした。その当時しばらく別れているということさえも自分にはつらかったのに、こうして一人でも生きていられるものであると思うと、自分は偽り者のような気がするとも帝はお思いになった。「死んだ大納言の遺言を苦労して実行した未亡人へのむくいは、更衣を後宮の一段高い位置にすえることだ、そうしたいと自分はいつも思っていたが、何もかもみな夢になった」とおいいになって、未亡人にかぎりない同情をしておいでになった。「しかし、あの人はいなくても若宮が天子にでもなる日がくれば、故人に后(きさき)の位を贈ることもできる。それまで生きていたいとあの夫人は思っているだろう」などという仰せがあった。命婦は贈(おく)られた物を御前へ並べた。これが唐の幻術師が他界の楊貴妃に会って得てきた玉の簪(かんざし)であったらと、帝はかいないこともお思いになった。 尋ね行くまぼろしもがなつてにても   魂(たま)のありかをそこと知るべく 絵で見る楊貴妃はどんなに名手の描いたものでも、絵における表現はかぎりがあって、それほどのすぐれた顔ももっていない。太液(たいえき)の池の蓮花(れんげ)にも、未央宮(びおうきゅう)の柳の趣きにもその人は似ていたであろうが、また唐の服装は華美ではあったであろうが、更衣のもった柔らかい美、艶(えん)な姿態をそれに思いくらべてごらんになると、これは花の色にも鳥の声にもたとえられぬ最上のものであった。お二人のあいだはいつも、天にあっては比翼(ひよく)の鳥、地に生れれば連理(れんり)の枝という言葉で永久の愛を誓っておいでになったが、運命はその一人に早く死を与えてしまった。秋風の音にも虫の声にも帝が悲しみを覚えておいでになるとき、弘徽殿の女御はもう久しく夜の御殿(おとど)の宿直(とのい)にもおあがりせずにいて、今夜の月明にふけるまでその御殿で音楽の合奏をさせているのを帝は不愉快に思召した。このごろの帝のお心もちをよく知っている殿上役人や帝づきの女房などもみな、弘徽殿の楽音に反感をもった。負けぎらいな性質の人で更衣の死などは眼中にないというふうをわざと見せているのであった。 月も落ちてしまった。  雲の上も涙にくるる秋の月    いかですむらん浅茅生(あさじう)の宿 命婦がご報告した故人の家のことを、なお帝は想像あそばしながら起きておいでになった。 右近衛府(うこんのえふ)の士官が宿直者の名を披露(ひろう)するのをもってすれば午前二時になったのであろう。人目をおはばかりになってご寝室へおはいりになってからも、安眠を得たもうことはできなかった。 朝のお目ざめにもまた、夜明けも知らずに語り合った昔のご追憶がお心を占めて、寵姫(ちょうき)の在(あ)った日も亡(な)いあとも朝の政務はお怠りになることになる。お食欲もない。簡単なご朝食はしるしだけおとりになるが、帝王のご朝餐(ちょうさん)として用意される大床子(しょうじ)のお料理などは召しあがらないものになっていた。それには殿上役人のお給仕がつくのであるが、それらの人はみなこの状態を嘆(なげ)いていた。すべて側近する人は男女の別なしに困ったことであると嘆いた。よくよく深い前生のご縁で、その当時は世の非難も後宮の恨みの声もお耳にはとまらず、その人に関することでだけは正しい判断を失っておしまいになり、また死んだあとではこうして悲しみに沈んでおいでになって政務も何もお顧みにならない。国家のためによろしくないことであるといって、支那の歴朝の例までも引き出していう人もあった。 幾月かののちに第二の皇子が宮中へおはいりになった。ごくお小さいときですら、この世のものとはお見えにならぬご美貌のそなわった方であったが、今はまた、いっそう輝くほどのものに見えた。その翌年、立太子のことがあった。帝の思召しは第二の皇子にあったが、だれという後見の人がなく、また、だれもが肯定しないことであるのを悟っておいでになって、かえってその地位は若宮の前途を危険にするものであるとお思いになって、ご心中をだれにもお漏(もら)しにならなかった。東宮(とうぐう)におなりになったのは第一親王である。この結果を見て、あれほどの御愛子でもやはり太子にはおできにならないのだと世間もいい、弘徽殿の女御も安心した。そのときから宮の外祖母の未亡人は落胆して更衣のいる世界へ行くことのほかには希望もないといって一心にみ仏の来迎(らいごう)を求めて、とうとう亡くなった。帝はまた若宮が祖母を失われたことでお悲しみになった。これは皇子が六歳のときのことであるから、今度は母の更衣の死に会ったときとは違い、皇子は祖母の死を知ってお悲しみになった。今までしじゅうお世話を申していた宮とお別れするのが悲しい、ということばかりを未亡人はいって死んだ。 それから若宮は、もう宮中にばかりおいでになることになった。七歳の時に書初(ふみはじ)めの式がおこなわれて学問をお始めになったが、皇子の類のない聰明さに帝はお驚きになることが多かった。「もうこの子をだれも憎むことができないでしょう。母親のないという点だけでもかわいがっておやりなさい」と帝はおいいになって、弘徽殿へ昼間おいでになるときもいっしょにおつれになったりして、そのまま御簾(みす)の中にまでもお入れになった。どんな強さ一方の武士だっても仇敵(きゅうてき)だっても、この人を見ては笑(え)みが自然に湧くであろうと思われる美しい少童(しょうどう)でおありになったから、女御も愛を覚えずにはいられなかった。この女御は東宮のほかに姫君をお二人お生みしていたが、その方々よりも第二の皇子の方がおきれいであった。姫宮方もお隠れにならないで賢い遊び相手としてお扱いになった。学問はもとより、音楽の才も豊(ゆた)かであった。いえば不自然に聞えるほどの天才児であった。 その時分に高麗(こうらい)人が来朝した中に、じょうずな人相見の者がまじっていた。帝はそれをお聞きになったが、宮中へお呼びになることは亭子院(ていじのいん)のお誡(いまし)めがあっておできにならず、だれにも秘密にして皇子のお世話役のようになっている右大弁(うだいべん)の子のように思わせて、皇子を外人の旅宿する鴻臚館(こうろかん)へおやりになった。 相人(そうにん)は不審そうに頭をたびたび傾けた。「国の親になって最上の位を得る人相であって、さてそれでよいかと拝見すると、そうなることはこの人の幸福な道でない。国家の柱石になって帝王の補佐をする人として見てもまた違うようです」といった。弁も漢学のよくできる官人であったから、筆紙をもってする高麗人との問答にはおもしろいものがあった。詩の贈答もして高麗人はもう日本の旅が終ろうとする期(ご)に臨(のぞ)んで珍しい高貴の相をもつ人に会ったことは、いまさらにこの国を離れがたくすることであるというような意味の作をした。若宮も送別の意味をお作りになったが、その詩をひじょうにほめて種々(いろいろ)なその国の贈物をしたりした。 朝廷からも高麗の相人へ多くの下賜(かし)品があった。その評判から東宮の外戚の右大臣などは第二の皇子と高麗の相人との関係に疑いをもった。好遇された点が腑(ふ)に落ちないのである。聰明な帝は高麗人の言葉以前に皇子の将来を見通して、幸福な道を選ぼうとしておいでになった。それで、ほとんど同じことを占(うらな)った相人に価値をお認めになったのである。四品(ほん)以下の無品親王などで、心細い皇族としてこの子を置きたくない、自分の代もいつ終るかしれぬのであるから、将来にもっともたのもしい位置をこの子に設けておいてやらねばならぬ。臣下の列に入れて国家の柱石たらしめることがいちばんよいと、こうお決めになって、以前にもましていろいろの勉強をおさせになった。大きな天才らしい点のあらわれてくるのをごらんになると、人臣にするのが惜しいというお心になるのであったが、親王にすれば天子にかわろうとする野心をもつような疑いを当然受けそうにお思われになった。じょうずな運命占いをする者にお尋(たず)ねになっても同じような答申をするので、元服後は源姓をたまわって源氏の某(なにがし)としようとお決めになった。 年月がたっても帝は桐壺の更衣との死別の悲しみをお忘れになることができなかった。慰みになるかと思召して美しい評判のある人などを後宮へ召されることもあったが、結果はこの世界には故更衣の美に準ずるだけの人もないのであるという失望をお味わいになっただけである。そうしたころ、先帝(帝の従兄(いとこ)あるいは叔父(おじ)君)の第四の内親王でお美しいことをだれもいう方で、母君のお后(きさき)がだいじにしておいでになる方のことを、帝のおそばに奉仕している典侍(ないしのすけ)は先帝の宮廷にいた人で、后の宮へも親しく出入りしていて、内親王のご幼少時代をも知り、現在でもほのかにお顔を拝見する機会を多く得ていたから、帝へお話しした。「お亡(か)くれになりました御息所(みやすどころ)のご容貌に似た方を、三代も宮廷におりました私すらまだ見たことがございませんでしたのに、后の宮様の内親王様だけがあの方に似ていらっしゃいますことにはじめて気がつきました。ひじょうにお美しい方でございます」 もしそんなことがあったらと大御心が動いて、先帝の后の宮へ姫宮のご入内のことを懇切にお申し入れになった。お后は、そんな恐ろしいこと、東宮のお母様の女御が並はずれな強い性格で、桐壺の更衣が露骨ないじめ方をされた例もあるのに、と思召して話はそのままになっていた。そのうちお后もお崩(かく)れになった。姫宮がお一人で暮しておいでになるのを帝はお聞きになって、「女御というよりも自分の娘たちの内親王と同じように思って世話がしたい」と、なおも熱心に入内をお勧(すす)めになった。こうしておいでになって、母宮のことばかりを思っておいでになるよりは、宮中のご生活にお帰りになったら若いお心の慰みにもなろうと、おつきの女房やお世話係の者がいい、兄君の兵部卿(ひょうぶきょう)親王もその説にご賛成になって、それで先帝の第四の内親王は当帝の女御におなりになった。御殿は藤壺(ふじつぼ)である。典侍の話のとおりに、姫宮の容貌も身のおとりなしもふしぎなまで桐壺の更衣に似ておいでになった。この方はご身分に非の打ちどころがない。すべてごりっぱなものであって、だれも貶(おとし)める言葉を知らなかった。桐壺の更衣は身分とご寵愛とに比例のとれぬところがあった。お痛手が新女御の宮で癒(いや)されたともいえないであろうが、自然に昔は昔として忘れられていくようになり、帝にまた楽しいご生活が帰ってきた。あれほどのことも、やはり永久不変でありえない人間の恋であったのであろう。 源氏の君(まだ源姓にはなっておられない皇子であるが、やがてそうおなりになる方であるから筆者はこう書く)はいつも帝のおそばをお離れしないのであるから、自然どの女御の御殿へもしたがって行く。帝がことにしばしばおいでになる御殿は藤壺であって、お供して源氏のしばしば行く御殿は藤壺である。宮もお慣れになって隠れてばかりはおいでにならなかった。どの後宮でも容貌の自信がなくて入内した者はないのであるから、みなそれぞれの美をそなえた人たちであったが、もうみなだいぶ年がいっていた。その中へ若いお美しい藤壺の宮が出現されて、その方はひじょうにはずかしがって、なるべく顔を見せぬようにとなすっても、自然に源氏の君が見ることになる場合もあった。母の更衣は面影も覚えていないが、よく似ておいでになると典侍がいったので、子ども心に母に似た人として恋しく、いつも藤壺へ行きたくなって、あの方と親しくなりたいという望みが心にあった。帝には二人とも最愛の妃であり、最愛の御子であった。「彼を愛しておやりなさい。ふしぎなほど、あなたとこの子の母とは似ているのです。失礼だと思わずにかわいがってやってください。この子の目つき顔つきがまたよく母に似ていますから、この子とあなたとを母と子と見てもよい気がします」など、帝がおとりなしなると、子ども心にも花や紅葉(もみじ)の美しい枝は、まずこの宮へさしあげたい、自分の好意を受けていただきたいというこんな態度をとるようになった。現在の弘徽殿の女御の嫉妬の対象は藤壺の宮であったから、その方へ好意を寄せる源氏に、一時忘れられていた旧怨(きゅうえん)も再燃して憎しみをもつことになった。女御が自慢にし、ほめられてもおいでになる幼内親王の美を遠く超(こ)えた源氏の美貌を、世間の人はいいあらわすために光君(ひかるのきみ)といった。女御として藤壺の宮のご寵愛が並びないものであったから対句のように作って、輝(かがや)く日(ひ)の宮と一方を申していた。 源氏の君の美しい童形をいつまでも変えたくないように帝は思召したのであったが、いよいよ十二の歳に元服をおさせになることになった。その式の準備もなにも帝ご自身でお指図(さしず)になった。前に東宮のご元服の式を紫宸(ししん)殿であげられたときの派手(はで)やかさに落さず、その日、官人たちが各階級別々にさずかる響宴(きょうえん)の仕度を内蔵寮(くらりょう)、穀倉院(こくそういん)などでするのは、つまり公式の仕度で、それではじゅうぶんでないと思召して、特に仰せがあって、それらも華麗をきわめたものにされた。 清涼殿は東面しているが、お庭の前のお座敷に玉座の椅子(いす)がすえられ、元服される皇子の席、加冠役(かかんやく)の大臣の席がそのお前にできていた。午後四時に源氏の君が参った。上で二つに分けて耳のところで輪にした童形の礼髪(れいはつ)を結(ゆ)った源氏の顔つき、少年の美、これを永久に保存しておくことが不可能なのであろうかと惜しまれた。理髪の役は大蔵卿(おおくらきょう)である、美しい髪を短く切るのを惜しく思うふうであった。帝は御息所(みやすどころ)がこの式を見たならばと、昔をお思い出しになることによって堪えがたくなる悲しみをおさえておいでになった。加冠が終って、いったん休息所(きゅうそくじょ)にさがり、そこで源氏は服をかえて庭上の拝をした。参列の諸員はみな小さい大宮人の美に感激の涙をこぼしていた。帝はましてご自制されがたいご感情があった。藤壺の宮をお得になって以来、まぎれておいでになることもあった昔の哀愁が今一度にお胸へ帰ってきたのである。まだ小さくて、おとなの頭の形になることは、その人の美を損じさせはしないかというご懸念(けねん)もおありになったのであるが、源氏の君には今驚かれるほどの新彩が加わって見えた。加冠の大臣には夫人の内親王とのあいだに生れた令嬢があった。東宮から後宮にとお望みになったのをお受けせずに、お返辞を躊躇(ちゅうちょ)していたのは、初めから源氏の君の配偶者に擬(ぎ)していたからである。大臣は帝のご意向をもうかがった。「それでは元服したのちの彼を世話する人も要(い)ることであるから、その人をいっしょにさせればよい」という仰せがあったから、大臣はその実現を期していた。 今日の侍所(さむらいどころ)になっている座敷で開かれた酒宴に、親王方の次の席へ源氏はついた。娘の件を大臣がほのめかしても、きわめて若い源氏はなんとも返辞することができないのであった。帝のお居間の方から仰せによって内侍が大臣を呼びに来たので、大臣はすぐに御前へ行った。加冠役としての下賜品はおそばの命婦がとりついだ。白い大袿(おおうちぎ)に帝のお召料のお服が一襲(ひとかさね)で、これは昔から定まった品である。酒杯をたまわるときに、次の歌を仰せられた。  いときなき初元結ひに長き世を    契(ちぎ)る心は結びこめつや 大臣の女(むすめ)との結婚にまでおいいおよぼしになった御製(ぎょせい)は大臣を驚かした。  結びつる心も深き元結ひに    濃き紫の色しあせずばと返歌を奏上してから大臣は、清涼殿の正面の階段をさがって拝礼をした。左馬寮(さまりょう)のお馬と蔵人所(くろうどどころ)の鷹(たか)をその時にたまわった。そのあとで諸員が階前に出て、官等にしたがってそれぞれの下賜品を得た。この日のご響宴の席の折詰のお料理、籠(かご)詰めの菓子などは、みな右大弁がご命令によって作ったものであった。一般の官吏にたもう弁当の数、一般に下賜される絹を入れた箱の多かったことは、東宮のご元服のとき以上であった。 その夜、源氏の君は左大臣家へ婿(むこ)になって行った。この儀式にも善美は尽されたのである。高貴な美少年の婿を大臣はかわいく思った。姫君の方がすこし年上であったから、年下の少年に配されたことを、不似合いにはずかしいことに思っていた。この大臣は大きい勢力をもったうえに、姫君の母の夫人は帝の同胞(どうほう)であったから、あくまでもはなやかな家であるところへ、今度また帝のご愛子の源氏を婿に迎えたのであるから、東宮の外祖父で未来の関白と思われている右大臣の勢力は比較にならぬほど気押(けお)されていた。左大臣は何人かの妻妾から生れた子どもを幾人ももっていた。内親王腹のは今蔵人少将であって年少の美しい貴公子であるのを、左右大臣の仲はよくないのであるが、その蔵人少将をよその者に見ていることができず、だいじにしている四女の婿にした。これも左大臣が源氏の君をたいせつがるのに劣らず、右大臣からだいじな婿君としてかしずかれていたのはよい一対(いっつい)の麗(うる)わしいことであった。 源氏の君は帝がおそばを離しにくくあそばすので、ゆっくりと妻の家に行っていることもできなかった。源氏の心には藤壺の宮の美が最上のものに思われて、あのような人を自分も妻にしたい、宮のような女性はもう一人とないであろう、左大臣の令嬢はだいじにされて育った美しい貴族の娘とだけはうなずかれるがと、こんなふうに思われて単純な少年の心には藤壺の宮のことばかりが恋しくて苦しいほどであった。元服後の源氏は、もう藤壺の御殿の御簾(みす)の中へは入れていただけなかった。琴や笛の音の中に、その方がおひきになるものの声を求めるとか、今はもう物越しにより聞かれないほのかなお声を聞くとかが、せめてもの慰めになって、宮中の宿直(とのい)ばかりが好きだった。五六日御所にいて、二三日大臣家へ行くなど絶え絶えの通い方を、まだ少年期であるからと見て大臣はとがめようとも思わず、相も変らず婿君のかしずき騒ぎをしていた。新夫婦づきの女房は、ことにすぐれた者をもってしたり、気に入りそうな遊びを催したり、一所懸命である。御所では母の更衣のもとの桐壺を源氏の宿直所(とのいどころ)にお与えになって、御息所(みやすどころ)に侍していた女房をそのまま使わせておいでになった。更衣の家の方は修理の役所、内匠寮(たくみりょう)などへ帝がお命じになって、ひじょうにりっぱなものに改築されたのである。もとから築山(つきやま)のあるよい庭のついた家であったが、池なども今度はずっと広くされた。二条の院はこれである。源氏はこんな気に入った家に自分の理想どおりの妻と暮すことができたらと思って、しじゅう嘆息をしていた。 光の君という名は、前に鴻臚館(こうろかん)へ来た高麗(こうらい)人が、源氏の美貌と天才をほめてつけた名だと、そのころいわれたそうである。