Style of Muratiki-Siki-Bu(紫式部むらさきしきぶ)

2007年8月8日星期三

桐壺(きりつぼ)


源氏物語


紫式部


與謝野晶子訳

桐壺(きりつぼ)

紫のかゞやく花と日の光思ひあはざることわりもなし晶子 どの天皇様の御代(みよ)であったか、女御(にょご)とか更衣(こうい)とかいわれる後宮(こうきゅう)がおおぜいいた中に、最上の貴族出身ではないが深いご寵愛(ちょうあい)を得ている人があった。最初から自分こそはという自信と、親兄弟の勢力にたのむところがあって宮中にはいった女御たちからは失敬な女としてねたまれた。その人と同等、もしくはそれより地位の低い更衣たちはまして嫉妬(しっと)の炎を燃やさないわけもなかった。夜の御殿(おとど)の宿直所(とのいどころ)からさがる朝、つづいてその人ばかりが召される夜、目に見、耳に聞いてくやしがらせた恨みのせいもあったか、からだが弱くなって、心細くなった更衣は多く実家へさがっていがちということになると、いよいよ帝(みかど)はこの人にばかり心をおひかれになるというごようすで、人がなんと批評しようとも、それにご遠慮などというものがおできにならない。ご聖徳を伝える歴史の上にも暗い影のひとところ残るようなことにもなりかねない状態になった。高官たちも殿上(てんじょう)役人たちも困って、ご覚醒(かくせい)になるのを期しながら、当分は見ぬ顔をしていたいという態度をとるほどのご寵愛ぶりであった。唐(とう)の国でもこの種類の寵姫(ちょうき)、楊家(ようか)の女の出現によって乱が醸(かも)されたなどと陰(かげ)ではいわれる。今や、この女性が一天下のわざわいだとされるにいたった。馬嵬(ばかい)の駅がいつ再現されるかもしれぬ。その人にとっては堪えがたいような苦しい雰囲気(ふんいき)の中でも、ただ深いご愛情だけをたよりにして暮していた。父の大納言(だいなごん)はもう故人であった。母の未亡人が生れのよい見識のある女で、わが娘を現代に勢力のある派手(はで)な家の娘たちにひけをとらせないよき保護者たりえた。それでも大官の後援者をもたぬ更衣は、何かの場合にいつも心細い思いをするようだった。 前生(ぜんしょう)の縁が深かったか、またもないような美しい皇子(おうじ)までがこの人からお生れになった。寵姫を母とした御子(みこ)を早くごらんになりたい思召(おぼしめ)しから、正規の日数がたつとすぐに更衣母子(おやこ)を宮中へお招きになった。小皇子は、いかなる美なるものよりも美しい顔をしておいでになった。帝の第一皇子は右大臣の娘の女御からお生れになって、重い外戚(がいせき)が背景になっていて、疑いもない未来の皇太子として世の人は尊敬をささげているが、第二の皇子の美貌(びぼう)にならぶことがおできにならぬため、それは皇家の長子としてだいじにあそばされ、これはご自身の愛子として、ひじょうにだいじがっておいでになった。更衣ははじめから普通の朝廷の女官として奉仕するほどの軽い身分ではなかった、ただ、お愛しになるあまりに、その人自身は最高の貴女といってよいほどのりっぱな女ではあったが、しじゅうおそばへお置きになろうとして、殿上で音楽その他のお催(もよお)し事をあそばすさいには、だれよりもまず先にこの人を常の御殿(おとど)へお呼びになり、またある時はお引きとめになって更衣が夜の御殿から朝の退出ができず、そのまま昼も侍(じ)しているようなことになったりして、やや軽いふうにも見られたのが、皇子のお生れになって以後、目に立って重々しくお扱いになったから、東宮(とうぐう)にも、どうかすればこの皇子をお立てになるかもしれぬと、第一の皇子のご生母の女御は疑いをもっていた。この人は帝のもっともお若い時に入内(じゅだい)した最初の女御であった。この女御がする非難と恨み言だけは無関心にしておいでになれなかった。この女御へすまないという気もじゅうぶんにもっておいでになった。帝の深い愛を信じながらも、悪くいう者と、何かの欠点を探し出そうとする者ばかりの宮中に、病身な、そして無力な家を背景としている心細い更衣は、愛されれば愛されるほど苦しみがふえるふうであった。 住んでいる御殿は御所の中の東北のすみのような桐壺(きりつぼ)であった。いくつかの女御や更衣たちの御殿の廊(ろう)を通(かよ)い路(みち)にして帝がしばしばそこへおいでになり、宿直(とのい)をする更衣があがりさがりして行く桐壺であったから、しじゅうながめていねばならぬ御殿の住人たちの恨みが量(かさ)んでいくのも道理といわねばならない。召されることがあまりつづくころは、打橋(うちはし)とか通い廊下のある戸口とかに意地の悪いしかけがされて、送り迎えをする女房たちの着物の裾(すそ)が一度で痛んでしまうようなことがあったりする。またあるときは、どうしてもそこを通らねばならぬ廊下の戸に錠(じょう)がさされてあったり、そこが通れねばこちらを行くはずの御殿の人どうしがいい合せて、桐壺の更衣の通り路をなくして辱(はずか)しめるようなことなどもしばしばあった。数えきれぬほどの苦しみを受けて、更衣が心を滅入(めい)らせているのをごらんになると、帝はいっそう憐(あわ)れを多くお加(くわ)えになって、清涼殿(せいりょうでん)につづいた後涼殿(こうりょうでん)に住んでいた更衣を外へお移しになって、桐壺の更衣へ休息室としてお与えになった。移された人の恨みはどの後宮(こうきゅう)よりもまた深くなった。 第二の皇子が三歳におなりになった時に袴着(はかまぎ)の式がおこなわれた。前にあった第一の皇子のその式に劣らぬような派手(はで)な準備の費用が宮廷から支出された。それにつけても世間はいろいろに批評をしたが、成長されるこの皇子の美貌と聰明(そうめい)さとが類のないものであったから、だれも皇子を悪く思うことはできなかった。有識者はこの天才的な美しい小皇子を見て、こんな人も人間世界に生れてくるものかとみな驚いていた。その年の夏のことである。御息所(みやすどころ)(皇子女の生母になった更衣はこう呼ばれるのである)はちょっとした病気になって、実家へさがろうとしたが、帝はおゆるしにならなかった。どこかからだが悪いということはこの人の常のことになっていたから、帝はそれほどお驚きにならずに、「もうしばらく御所で養生をしてみてからにするがよい」といっておいでになるうちにしだいに悪くなって、そうなってからほんの五六日のうちに病は重体になった。母の未亡人は泣く泣くお暇(ひま)を願って帰宅させることにした。こんな場合にはまたどんな呪詛(じゅそ)がおこなわれるかもしれない、皇子にまでわざわいをおよぼしてはとの心づかいから、皇子だけを宮中にとどめて、目立たぬように御息所だけが退出するのであった。このうえとどめることは不可能であると帝は思召(おぼしめ)して、更衣が出かけて行くところを見送ることのできぬご尊貴の御身(おんみ)のものたりなさを堪えがたく悲しんでおいでになった。 はなやかな顔だちの美人がひじょうに痩(や)せてしまって、心の中には帝とお別れしていく無限の悲しみがあったが、口へは何も出していうことのできないのがこの人の性質である。あるかないかに弱っているのをごらんになると、帝は過去も未来もまっ暗になった気があそばすのであった。泣く泣くいろいろなたのもしい将来の約束をあそばされても、更衣はお返辞もできないのである。目つきもよほどだるそうで、平生からなよなよとした人がいっそう弱々しいふうになって寝ているのであったから、これはどうなることであろうという不安が大御心(おおみこころ)を襲うた。更衣が宮中から輦車(てぐるま)で出てよいご許可の宜旨(せんじ)を役人へお下(くだ)しになったりあそばされても、また病室へお帰りになると、今行くということをおゆるしにならない。「死の旅にも同時に出るのがわれわれ二人であるとあなたも約束したのだから、私を置いて家へ行ってしまうことはできないはずだ」と、帝がおいいになると、そのお心もちのよくわかる女も、ひじょうに悲しそうにお顔を見て、「限りとて別るる道の悲しきに   いかまほしきは命なりけり 死がそれほど私に迫ってきておりませんのでしたら」 これだけのことを息も絶え絶えにいって、なお帝においいしたいことがありそうであるが、まったく気力はなくなってしまった。死ぬのであったらこのまま自分のそばで死なせたいと帝は思召したが、今日から始めるはずの祈祷(きとう)も高僧たちがうけたまわっていて、それもぜひ今夜から始めねばなりませぬというようなことも申しあげて方々から更衣の退出をうながすので、別れがたく思召しながらお帰しになった。 帝は、お胸が悲しみでいっぱいになって、お眠りになることが困難であった。帰った更衣の家へお出しになる尋(たず)ねの使いはすぐ帰って来るはずであるが、それすら返辞を聞くことが待ちどおしいであろうと仰(おお)せられた帝であるのに、お使いは、「夜半過ぎにお卒去(かくれ)になりました」といって、故大納言家の人たちの泣き騒いでいるのを見ると、力が落ちてそのまま御所へ帰って来た。 更衣の死をお聞きになった帝のお悲しみは非常で、そのまま引籠(こも)っておいでになった。その中でも忘れがたみの皇子はそばへ置いておきたく思召したが、母の忌服(きふく)中の皇子が、けがれのやかましい宮中においでになる例などはないので、更衣の実家へ退出されることになった。皇子はどんな大事があったともお知りにならず、侍女たちが泣き騒ぎ、帝のお顔にも涙が流れてばかりいるのだけをふしぎにお思いになるふうであった。父子の別れというようなことはなんでもない場合でも悲しいものであるから、この時の帝のお心もちほどお気の毒なものはなかった。 どんなに惜しい人でも、遺骸(いがい)は遺骸として扱われねばならぬ葬儀がおこなわれることになって、母の未亡人は遺骸と同時に火葬の煙になりたいと泣き焦(こ)がれていた。そして葬送の女房の車にしいて望んでいっしょに乗って愛宕(おたぎ)の野にいかめしく設けられた式場へついた時の未亡人の心はどんなに悲しかったであろう。「死んだ人を見ながら、やはり生きている人のように思われてならない私の迷(まよ)いをさますために行く必要があります」と賢そうにいっていたが、車から落ちてしまいそうに泣くので、こんなことになるのを恐れていたと女房たちは思った。 宮中からお使いが葬場へ来た。更衣に三位(み)を贈(おく)られたのである。勅使がその宣命(せんみょう)を読んだ時ほど未亡人にとって悲しいことはなかった。三位は女御に相当する位階である。生きていた日に女御ともいわせなかったことが帝には残り多く思召されて贈位をたまわったのである。こんなことででも後宮のある人々は反感をもった。同情のある人は故人の美しさ、性格のなだらかさなどで憎むことのできなかった人であると、今になって桐壺の更衣の真価を思い出していた。あまりにひどいご殊寵(しゅちょう)ぶりであったから、その当時は嫉妬を感じたのであるとそれらの人は以前のことを思っていた。やさしい同情深い女性であったのを、帝つきの女官たちはみな恋しがっていた。「なくてぞ人は恋しかりける」とは、こうした場合のことであろうと見えた。時は人の悲しみにかかわりもなく過ぎて、七日七日の仏事がつぎつぎにおこなわれる、そのたびに帝からはお弔(とむら)いの品々が下された。 愛人の死んだのちの日がたっていくにしたがって、どうしようもない寂(さび)しさばかりを帝はお覚えになるのであって、女御、更衣を宿直(とのい)に召されることも絶えてしまった。ただ涙の中のご朝夕であって、拝見する人までが湿(しめ)っぽい心になる秋であった。「死んでからまでも人の気を悪くさせるご寵愛ぶりね」などといって、右大臣の娘の弘徽殿(こきでん)の女御などは今さえも嫉妬を捨てなかった。帝は一の皇子をごらんになっても更衣の忘れがたみの皇子の恋しさばかりをお覚えになって、親しい女官や、ご自身のお乳母(めのと)などをその家へおつかわしになって若宮のようすを報告させておいでになった。 野分(のわき)ふうに風が出て肌寒(はださむ)の覚えられる日の夕方に、平生よりもいっそう故人(こじん)がお思われになって、靫負(ゆげい)の命婦(みょうぶ)という人を使いとしてお出しになった。夕月夜の美しい時刻に命婦を出かけさせて、そのまま深いもの思いをしておいでになった。以前にこうした月夜は音楽の遊びがおこなわれて、更衣はその一人に加わってすぐれた音楽者の素質を見せた。またそんな夜に詠(よ)む歌なども平凡ではなかった。彼女の幻(まぼろし)は帝のお目に立ち添ってすこしも消えない。しかしながら、どんなに濃(こ)い幻でも瞬間の現実の価値はないのである。 命婦は故大納言家について車が門から中へ引き入れられた刹那(せつな)から、もういいようのない寂しさが味わわれた。未亡人の家であるが、一人娘のために住居の外見などにもみすぼらしさがないようにと、りっぱな体裁(ていさい)を保って暮していたのであるが、子を失った女主人の無明(むみょう)の日がつづくようになってからは、しばらくのうちに庭の雑草が行儀悪く高くなった。またこのごろの野分(のわき)の風でいっそう邸内が荒れた気のするのであったが、月光だけは伸びた草にもさわらずさしこんだその南向きの座敷に命婦を招じて出て来た女主人は、すぐにもものがいえないほどまたも悲しみに胸をいっぱいにしていた。「娘を死なせました母親がよくも生きていられたものというように、運命がただ恨めしゅうございますのに、こうしたお使いがあばら家へおいでくださると、またいっそう自分がはずかしくてなりません」といって、実際堪えられないだろうと思われるほど泣く。「こちらへあがりますと、またいっそうお気の毒になりまして、魂も消えるようでございますと、先日典侍(ないしのすけ)は陛下へ申しあげていらっしゃいましたが、私のよう浅薄な人間でもほんとうに悲しさが身にしみます」といってから、しばらくして命婦は帝の仰せを伝えた。『当分夢ではないであろうかというようにばかり思われましたが、ようやくおちつくとともに、どうしようもない悲しみを感じるようになりました。こんな時はどうすればよいのか、せめて話し合う人があればいいのですが、それもありません。目立たぬようにして時々御所へ来られてはどうですか。若宮を長く見ずにいて気がかりでならないし、また若宮も悲しんでおられる人ばかりの中にいてかわいそうですから、彼を早く宮中へ入れることにして、あなたもいっしょにおいでなさい』「こういうお言葉ですが、涙にむせかえっておいでになって、しかも人に弱さを見せまいとご遠慮をなさらないでもないごようすがお気の毒で、ただ、おおよそだけをうけたまわっただけで参りました」といって、また帝のお言(こと)づてのほかのご消息を渡した。「涙でこのごろは目も暗くなっておりますが、過分な、かたじけない仰せを光明にいたしまして」 未亡人は、お文を拝見するのであった。 時がたてばすこしは寂しさもまぎれるであろうかと、そんなことをたのみにして日を送っていても、日がたてばたつほど悲しみの深くなるのは困ったことである。どうしているかとばかり思いやっている小児(こども)も、そろった両親に育てられる幸福を失ったものであるから、子を失ったあなたに、せめてその子のかわりとしてめんどうを見てやってくれることをたのむ。などこまごまと書いておありになった。   宮城野(みやぎの)の霧吹き結ぶ風の音に     小萩(はぎ)が上を思ひこそやれという御歌もあったが、未亡人は湧(わ)き出す涙がさまたげて明らかには拝見することができなかった。「長生きをするからこうした悲しい目にも会うのだと、それが世間の人の前に私をきまりわるくさせることなのでございますから、まして御所へ時々あがることなどは思いもよらぬことでございます。もったいない仰せをうかがっているのですが、私が伺候(しこう)いたしますことは今後も実行はできないでございましょう。若宮様は、やはり御父子の情というものが本能にありますものと見えて、御所へ早くおはいりになりたいごようすをお見せになりますから、私はご道理(もっとも)だとおかわいそうに思っておりますということなどは、表向きの奏上でなしに何かのおついでに申しあげてくださいませ。良人(おっと)も早く亡(な)くしますし、娘も死なせてしまいましたような不幸ずくめの私がごいっしょにおりますことは、若宮のために縁起(えんぎ)のよろしくないことと恐れ入っております。」などといった。そのうち若宮も、もうおやすみになった。「またお目ざめになりますのをお待ちして、若宮にお目にかかりまして、くわしくごようすも陛下へご報告したいのでございますが、使いの私の帰りますのをお待ちかねでもいらっしゃいますでしょうから、それでは、あまりおそくなるでございましょう」といって命婦は帰りを急いだ。「子を亡(な)くしました母親の心の、悲しい暗さがせめて一部分でも晴れますほどの話をさせていただきたいのですから、公(おおやけ)のお使いでなく、気楽なお気もちでお休みがてら、またお立ち寄りください。以前はうれしいことでよくお使いにおいでくださいましたのでしたが、こんな悲しい勅使であなたをお迎えするとはなんということでしょう。かえすがえす運命が私に長生きさせるのが苦しゅうございます。故人のことを申せば、生れました時から親たちに輝かしい未来の望みをもたせました子で、父の大納言はいよいよ危篤(きとく)になりますまで、この人を宮中へさしあげようと自分の思ったことをぜひ実現させてくれ、自分が死んだからといって今までの考えを捨てるようなことをしてはならないと、何度も何度も遺言いたしましたが、たしかな後援者なしの宮仕えは、かえって娘を不幸にするようなものではないだろうかとも思いながら、私にいたしましては、ただ遺言を守りたいばかりに陛下へさしあげましたが、過分なご寵愛を受けまして、そのお光でみすぼらしさも隠していただいて、娘はお仕えしていたのでしょうが、みなさんのご嫉妬の積っていくのが重荷になりまして、寿命で死んだとは思えませんような死に方をいたしましたのですから、陛下のあまりに深いご愛情がかえって恨めしいように、盲目的な母の愛から私は思いもいたします」 こんな話をまだ全部もいわないで未亡人は涙でむせかえってしまったりしているうちに、ますます深更(しんこう)になった。「それは陛下も仰せになります。自分の心でありながら、あまりに穏(おだ)やかでないほどの愛しようをしたのも前生(ぜんしょう)の約束で長くはいっしょにいられぬ二人であることを意識せずに感じていたのだ。自分らは恨めしい因縁(いんねん)でつながれていたのだ。自分は即位してから、だれのためにも苦痛を与えるようなことはしなかったという自信をもっていたが、あの人によって負ってならぬ女の恨みを負い、ついには何よりもたいせつなものを失って、悲しみにくれて以前よりももっと愚劣な者になっているのを思うと、自分らの前生の約束はどんなものであったか知りたいとお話しになって、湿(しめ)っぽいごようすばかりをお見せになっています」 どちらも話すことにきりがない。命婦は泣く泣く、「もうひじょうにおそいようですから、復命(ふくめい)は今晩のうちにいたしたいとぞんじますから」といって、帰る仕度(したく)をした。落ちぎわに近い月夜の空が澄みきった中を涼しい風が吹き、人の悲しみをうながすような虫の声がするのであるから帰りにくい。  鈴虫の声の限りを尽くしても    長き夜飽(あ)かず降る涙かな 車に乗ろうとして命婦はこんな歌を口ずさんだ。 「いとどしく虫の音しげき浅茅生(あさじう)に    露置き添ふる雲の上人 かえってご訪問が恨めしいと申しあげたいほどです」と未亡人は女房にいわせた。意匠を凝(こ)らせた贈物などする場合でなかったから、故人の形見(かたみ)ということにして、唐衣(からごろも)と裳(も)のひとそろえに、髪あげの用具のはいった箱を添えて贈った。 若い女房たちの更衣の死を悲しむのはむろんであるが、宮中住居をしなれていて、寂しくものたらず思われることが多く、おやさしい帝のごようすを思ったりして、若宮が早く御所へお帰りになるようにとうながすのであるが、不幸な自分がごいっしょにあがっていることも、また世間に非難の材料を与えるようなものであろうし、またそれかといって若宮とお別れしている苦痛にも堪えきれる自信がないと未亡人は思うので、けっきょく若宮の宮中入りは実行性に乏(とぼ)しかった。 御所へ帰った命婦は、まだ宵のままでご寝室へはいっておいでにならない帝を気の毒に思った。中庭の秋の花の盛りなのを愛していらっしゃるふうをあそばして、凡庸(ぼんよう)でない女房四五人をおそばに置いて話をしておいでになるのであった。このごろしじゅう帝のごらんになるものは、玄宗(げんそう)皇帝と楊貴妃(ようきひ)の恋を題材にした白楽天(はくらくてん)の長恨歌(ちょうごんか)を、亭子院(ていじのいん)が絵にあそばして、伊勢(いせ)や貫之(つらゆき)に歌をお詠(よ)ませになった巻物で、そのほか日本文学でも、支那(しな)のでも、愛人に別れた人の悲しみが歌われたものばかりを帝はお読みになった。帝は命婦にこまごまと大納言家のようすをお聞きになった。身にしむ思いを得てきたことを命婦は外へ声をはばかりながら申しあげた。未亡人のご返書を帝はごらんになる。 もったいなさをどうしまついたしてよろしゅうございますやら。こうした仰せをうけたまわりましても、愚か者はただ悲しい悲しいとばかり思われるのでございます。  荒き風防ぎし蔭の枯れしより    小萩(こはぎ)が上ぞしづ心無きというような、歌の価値の疑わしいようなものも書かれてあるが、悲しみのためにおちつかない心で詠んでいるのであるからと寛大にごらんになった。帝は、ある程度まではおさえていねばならぬ悲しみであると思召すが、それがご困難であるらしい。はじめて桐壺の更衣のあがって来たころのことなどまでが、お心の表面に浮びあがってきてはいっそう暗い悲しみに帝をお誘いした。その当時しばらく別れているということさえも自分にはつらかったのに、こうして一人でも生きていられるものであると思うと、自分は偽り者のような気がするとも帝はお思いになった。「死んだ大納言の遺言を苦労して実行した未亡人へのむくいは、更衣を後宮の一段高い位置にすえることだ、そうしたいと自分はいつも思っていたが、何もかもみな夢になった」とおいいになって、未亡人にかぎりない同情をしておいでになった。「しかし、あの人はいなくても若宮が天子にでもなる日がくれば、故人に后(きさき)の位を贈ることもできる。それまで生きていたいとあの夫人は思っているだろう」などという仰せがあった。命婦は贈(おく)られた物を御前へ並べた。これが唐の幻術師が他界の楊貴妃に会って得てきた玉の簪(かんざし)であったらと、帝はかいないこともお思いになった。 尋ね行くまぼろしもがなつてにても   魂(たま)のありかをそこと知るべく 絵で見る楊貴妃はどんなに名手の描いたものでも、絵における表現はかぎりがあって、それほどのすぐれた顔ももっていない。太液(たいえき)の池の蓮花(れんげ)にも、未央宮(びおうきゅう)の柳の趣きにもその人は似ていたであろうが、また唐の服装は華美ではあったであろうが、更衣のもった柔らかい美、艶(えん)な姿態をそれに思いくらべてごらんになると、これは花の色にも鳥の声にもたとえられぬ最上のものであった。お二人のあいだはいつも、天にあっては比翼(ひよく)の鳥、地に生れれば連理(れんり)の枝という言葉で永久の愛を誓っておいでになったが、運命はその一人に早く死を与えてしまった。秋風の音にも虫の声にも帝が悲しみを覚えておいでになるとき、弘徽殿の女御はもう久しく夜の御殿(おとど)の宿直(とのい)にもおあがりせずにいて、今夜の月明にふけるまでその御殿で音楽の合奏をさせているのを帝は不愉快に思召した。このごろの帝のお心もちをよく知っている殿上役人や帝づきの女房などもみな、弘徽殿の楽音に反感をもった。負けぎらいな性質の人で更衣の死などは眼中にないというふうをわざと見せているのであった。 月も落ちてしまった。  雲の上も涙にくるる秋の月    いかですむらん浅茅生(あさじう)の宿 命婦がご報告した故人の家のことを、なお帝は想像あそばしながら起きておいでになった。 右近衛府(うこんのえふ)の士官が宿直者の名を披露(ひろう)するのをもってすれば午前二時になったのであろう。人目をおはばかりになってご寝室へおはいりになってからも、安眠を得たもうことはできなかった。 朝のお目ざめにもまた、夜明けも知らずに語り合った昔のご追憶がお心を占めて、寵姫(ちょうき)の在(あ)った日も亡(な)いあとも朝の政務はお怠りになることになる。お食欲もない。簡単なご朝食はしるしだけおとりになるが、帝王のご朝餐(ちょうさん)として用意される大床子(しょうじ)のお料理などは召しあがらないものになっていた。それには殿上役人のお給仕がつくのであるが、それらの人はみなこの状態を嘆(なげ)いていた。すべて側近する人は男女の別なしに困ったことであると嘆いた。よくよく深い前生のご縁で、その当時は世の非難も後宮の恨みの声もお耳にはとまらず、その人に関することでだけは正しい判断を失っておしまいになり、また死んだあとではこうして悲しみに沈んでおいでになって政務も何もお顧みにならない。国家のためによろしくないことであるといって、支那の歴朝の例までも引き出していう人もあった。 幾月かののちに第二の皇子が宮中へおはいりになった。ごくお小さいときですら、この世のものとはお見えにならぬご美貌のそなわった方であったが、今はまた、いっそう輝くほどのものに見えた。その翌年、立太子のことがあった。帝の思召しは第二の皇子にあったが、だれという後見の人がなく、また、だれもが肯定しないことであるのを悟っておいでになって、かえってその地位は若宮の前途を危険にするものであるとお思いになって、ご心中をだれにもお漏(もら)しにならなかった。東宮(とうぐう)におなりになったのは第一親王である。この結果を見て、あれほどの御愛子でもやはり太子にはおできにならないのだと世間もいい、弘徽殿の女御も安心した。そのときから宮の外祖母の未亡人は落胆して更衣のいる世界へ行くことのほかには希望もないといって一心にみ仏の来迎(らいごう)を求めて、とうとう亡くなった。帝はまた若宮が祖母を失われたことでお悲しみになった。これは皇子が六歳のときのことであるから、今度は母の更衣の死に会ったときとは違い、皇子は祖母の死を知ってお悲しみになった。今までしじゅうお世話を申していた宮とお別れするのが悲しい、ということばかりを未亡人はいって死んだ。 それから若宮は、もう宮中にばかりおいでになることになった。七歳の時に書初(ふみはじ)めの式がおこなわれて学問をお始めになったが、皇子の類のない聰明さに帝はお驚きになることが多かった。「もうこの子をだれも憎むことができないでしょう。母親のないという点だけでもかわいがっておやりなさい」と帝はおいいになって、弘徽殿へ昼間おいでになるときもいっしょにおつれになったりして、そのまま御簾(みす)の中にまでもお入れになった。どんな強さ一方の武士だっても仇敵(きゅうてき)だっても、この人を見ては笑(え)みが自然に湧くであろうと思われる美しい少童(しょうどう)でおありになったから、女御も愛を覚えずにはいられなかった。この女御は東宮のほかに姫君をお二人お生みしていたが、その方々よりも第二の皇子の方がおきれいであった。姫宮方もお隠れにならないで賢い遊び相手としてお扱いになった。学問はもとより、音楽の才も豊(ゆた)かであった。いえば不自然に聞えるほどの天才児であった。 その時分に高麗(こうらい)人が来朝した中に、じょうずな人相見の者がまじっていた。帝はそれをお聞きになったが、宮中へお呼びになることは亭子院(ていじのいん)のお誡(いまし)めがあっておできにならず、だれにも秘密にして皇子のお世話役のようになっている右大弁(うだいべん)の子のように思わせて、皇子を外人の旅宿する鴻臚館(こうろかん)へおやりになった。 相人(そうにん)は不審そうに頭をたびたび傾けた。「国の親になって最上の位を得る人相であって、さてそれでよいかと拝見すると、そうなることはこの人の幸福な道でない。国家の柱石になって帝王の補佐をする人として見てもまた違うようです」といった。弁も漢学のよくできる官人であったから、筆紙をもってする高麗人との問答にはおもしろいものがあった。詩の贈答もして高麗人はもう日本の旅が終ろうとする期(ご)に臨(のぞ)んで珍しい高貴の相をもつ人に会ったことは、いまさらにこの国を離れがたくすることであるというような意味の作をした。若宮も送別の意味をお作りになったが、その詩をひじょうにほめて種々(いろいろ)なその国の贈物をしたりした。 朝廷からも高麗の相人へ多くの下賜(かし)品があった。その評判から東宮の外戚の右大臣などは第二の皇子と高麗の相人との関係に疑いをもった。好遇された点が腑(ふ)に落ちないのである。聰明な帝は高麗人の言葉以前に皇子の将来を見通して、幸福な道を選ぼうとしておいでになった。それで、ほとんど同じことを占(うらな)った相人に価値をお認めになったのである。四品(ほん)以下の無品親王などで、心細い皇族としてこの子を置きたくない、自分の代もいつ終るかしれぬのであるから、将来にもっともたのもしい位置をこの子に設けておいてやらねばならぬ。臣下の列に入れて国家の柱石たらしめることがいちばんよいと、こうお決めになって、以前にもましていろいろの勉強をおさせになった。大きな天才らしい点のあらわれてくるのをごらんになると、人臣にするのが惜しいというお心になるのであったが、親王にすれば天子にかわろうとする野心をもつような疑いを当然受けそうにお思われになった。じょうずな運命占いをする者にお尋(たず)ねになっても同じような答申をするので、元服後は源姓をたまわって源氏の某(なにがし)としようとお決めになった。 年月がたっても帝は桐壺の更衣との死別の悲しみをお忘れになることができなかった。慰みになるかと思召して美しい評判のある人などを後宮へ召されることもあったが、結果はこの世界には故更衣の美に準ずるだけの人もないのであるという失望をお味わいになっただけである。そうしたころ、先帝(帝の従兄(いとこ)あるいは叔父(おじ)君)の第四の内親王でお美しいことをだれもいう方で、母君のお后(きさき)がだいじにしておいでになる方のことを、帝のおそばに奉仕している典侍(ないしのすけ)は先帝の宮廷にいた人で、后の宮へも親しく出入りしていて、内親王のご幼少時代をも知り、現在でもほのかにお顔を拝見する機会を多く得ていたから、帝へお話しした。「お亡(か)くれになりました御息所(みやすどころ)のご容貌に似た方を、三代も宮廷におりました私すらまだ見たことがございませんでしたのに、后の宮様の内親王様だけがあの方に似ていらっしゃいますことにはじめて気がつきました。ひじょうにお美しい方でございます」 もしそんなことがあったらと大御心が動いて、先帝の后の宮へ姫宮のご入内のことを懇切にお申し入れになった。お后は、そんな恐ろしいこと、東宮のお母様の女御が並はずれな強い性格で、桐壺の更衣が露骨ないじめ方をされた例もあるのに、と思召して話はそのままになっていた。そのうちお后もお崩(かく)れになった。姫宮がお一人で暮しておいでになるのを帝はお聞きになって、「女御というよりも自分の娘たちの内親王と同じように思って世話がしたい」と、なおも熱心に入内をお勧(すす)めになった。こうしておいでになって、母宮のことばかりを思っておいでになるよりは、宮中のご生活にお帰りになったら若いお心の慰みにもなろうと、おつきの女房やお世話係の者がいい、兄君の兵部卿(ひょうぶきょう)親王もその説にご賛成になって、それで先帝の第四の内親王は当帝の女御におなりになった。御殿は藤壺(ふじつぼ)である。典侍の話のとおりに、姫宮の容貌も身のおとりなしもふしぎなまで桐壺の更衣に似ておいでになった。この方はご身分に非の打ちどころがない。すべてごりっぱなものであって、だれも貶(おとし)める言葉を知らなかった。桐壺の更衣は身分とご寵愛とに比例のとれぬところがあった。お痛手が新女御の宮で癒(いや)されたともいえないであろうが、自然に昔は昔として忘れられていくようになり、帝にまた楽しいご生活が帰ってきた。あれほどのことも、やはり永久不変でありえない人間の恋であったのであろう。 源氏の君(まだ源姓にはなっておられない皇子であるが、やがてそうおなりになる方であるから筆者はこう書く)はいつも帝のおそばをお離れしないのであるから、自然どの女御の御殿へもしたがって行く。帝がことにしばしばおいでになる御殿は藤壺であって、お供して源氏のしばしば行く御殿は藤壺である。宮もお慣れになって隠れてばかりはおいでにならなかった。どの後宮でも容貌の自信がなくて入内した者はないのであるから、みなそれぞれの美をそなえた人たちであったが、もうみなだいぶ年がいっていた。その中へ若いお美しい藤壺の宮が出現されて、その方はひじょうにはずかしがって、なるべく顔を見せぬようにとなすっても、自然に源氏の君が見ることになる場合もあった。母の更衣は面影も覚えていないが、よく似ておいでになると典侍がいったので、子ども心に母に似た人として恋しく、いつも藤壺へ行きたくなって、あの方と親しくなりたいという望みが心にあった。帝には二人とも最愛の妃であり、最愛の御子であった。「彼を愛しておやりなさい。ふしぎなほど、あなたとこの子の母とは似ているのです。失礼だと思わずにかわいがってやってください。この子の目つき顔つきがまたよく母に似ていますから、この子とあなたとを母と子と見てもよい気がします」など、帝がおとりなしなると、子ども心にも花や紅葉(もみじ)の美しい枝は、まずこの宮へさしあげたい、自分の好意を受けていただきたいというこんな態度をとるようになった。現在の弘徽殿の女御の嫉妬の対象は藤壺の宮であったから、その方へ好意を寄せる源氏に、一時忘れられていた旧怨(きゅうえん)も再燃して憎しみをもつことになった。女御が自慢にし、ほめられてもおいでになる幼内親王の美を遠く超(こ)えた源氏の美貌を、世間の人はいいあらわすために光君(ひかるのきみ)といった。女御として藤壺の宮のご寵愛が並びないものであったから対句のように作って、輝(かがや)く日(ひ)の宮と一方を申していた。 源氏の君の美しい童形をいつまでも変えたくないように帝は思召したのであったが、いよいよ十二の歳に元服をおさせになることになった。その式の準備もなにも帝ご自身でお指図(さしず)になった。前に東宮のご元服の式を紫宸(ししん)殿であげられたときの派手(はで)やかさに落さず、その日、官人たちが各階級別々にさずかる響宴(きょうえん)の仕度を内蔵寮(くらりょう)、穀倉院(こくそういん)などでするのは、つまり公式の仕度で、それではじゅうぶんでないと思召して、特に仰せがあって、それらも華麗をきわめたものにされた。 清涼殿は東面しているが、お庭の前のお座敷に玉座の椅子(いす)がすえられ、元服される皇子の席、加冠役(かかんやく)の大臣の席がそのお前にできていた。午後四時に源氏の君が参った。上で二つに分けて耳のところで輪にした童形の礼髪(れいはつ)を結(ゆ)った源氏の顔つき、少年の美、これを永久に保存しておくことが不可能なのであろうかと惜しまれた。理髪の役は大蔵卿(おおくらきょう)である、美しい髪を短く切るのを惜しく思うふうであった。帝は御息所(みやすどころ)がこの式を見たならばと、昔をお思い出しになることによって堪えがたくなる悲しみをおさえておいでになった。加冠が終って、いったん休息所(きゅうそくじょ)にさがり、そこで源氏は服をかえて庭上の拝をした。参列の諸員はみな小さい大宮人の美に感激の涙をこぼしていた。帝はましてご自制されがたいご感情があった。藤壺の宮をお得になって以来、まぎれておいでになることもあった昔の哀愁が今一度にお胸へ帰ってきたのである。まだ小さくて、おとなの頭の形になることは、その人の美を損じさせはしないかというご懸念(けねん)もおありになったのであるが、源氏の君には今驚かれるほどの新彩が加わって見えた。加冠の大臣には夫人の内親王とのあいだに生れた令嬢があった。東宮から後宮にとお望みになったのをお受けせずに、お返辞を躊躇(ちゅうちょ)していたのは、初めから源氏の君の配偶者に擬(ぎ)していたからである。大臣は帝のご意向をもうかがった。「それでは元服したのちの彼を世話する人も要(い)ることであるから、その人をいっしょにさせればよい」という仰せがあったから、大臣はその実現を期していた。 今日の侍所(さむらいどころ)になっている座敷で開かれた酒宴に、親王方の次の席へ源氏はついた。娘の件を大臣がほのめかしても、きわめて若い源氏はなんとも返辞することができないのであった。帝のお居間の方から仰せによって内侍が大臣を呼びに来たので、大臣はすぐに御前へ行った。加冠役としての下賜品はおそばの命婦がとりついだ。白い大袿(おおうちぎ)に帝のお召料のお服が一襲(ひとかさね)で、これは昔から定まった品である。酒杯をたまわるときに、次の歌を仰せられた。  いときなき初元結ひに長き世を    契(ちぎ)る心は結びこめつや 大臣の女(むすめ)との結婚にまでおいいおよぼしになった御製(ぎょせい)は大臣を驚かした。  結びつる心も深き元結ひに    濃き紫の色しあせずばと返歌を奏上してから大臣は、清涼殿の正面の階段をさがって拝礼をした。左馬寮(さまりょう)のお馬と蔵人所(くろうどどころ)の鷹(たか)をその時にたまわった。そのあとで諸員が階前に出て、官等にしたがってそれぞれの下賜品を得た。この日のご響宴の席の折詰のお料理、籠(かご)詰めの菓子などは、みな右大弁がご命令によって作ったものであった。一般の官吏にたもう弁当の数、一般に下賜される絹を入れた箱の多かったことは、東宮のご元服のとき以上であった。 その夜、源氏の君は左大臣家へ婿(むこ)になって行った。この儀式にも善美は尽されたのである。高貴な美少年の婿を大臣はかわいく思った。姫君の方がすこし年上であったから、年下の少年に配されたことを、不似合いにはずかしいことに思っていた。この大臣は大きい勢力をもったうえに、姫君の母の夫人は帝の同胞(どうほう)であったから、あくまでもはなやかな家であるところへ、今度また帝のご愛子の源氏を婿に迎えたのであるから、東宮の外祖父で未来の関白と思われている右大臣の勢力は比較にならぬほど気押(けお)されていた。左大臣は何人かの妻妾から生れた子どもを幾人ももっていた。内親王腹のは今蔵人少将であって年少の美しい貴公子であるのを、左右大臣の仲はよくないのであるが、その蔵人少将をよその者に見ていることができず、だいじにしている四女の婿にした。これも左大臣が源氏の君をたいせつがるのに劣らず、右大臣からだいじな婿君としてかしずかれていたのはよい一対(いっつい)の麗(うる)わしいことであった。 源氏の君は帝がおそばを離しにくくあそばすので、ゆっくりと妻の家に行っていることもできなかった。源氏の心には藤壺の宮の美が最上のものに思われて、あのような人を自分も妻にしたい、宮のような女性はもう一人とないであろう、左大臣の令嬢はだいじにされて育った美しい貴族の娘とだけはうなずかれるがと、こんなふうに思われて単純な少年の心には藤壺の宮のことばかりが恋しくて苦しいほどであった。元服後の源氏は、もう藤壺の御殿の御簾(みす)の中へは入れていただけなかった。琴や笛の音の中に、その方がおひきになるものの声を求めるとか、今はもう物越しにより聞かれないほのかなお声を聞くとかが、せめてもの慰めになって、宮中の宿直(とのい)ばかりが好きだった。五六日御所にいて、二三日大臣家へ行くなど絶え絶えの通い方を、まだ少年期であるからと見て大臣はとがめようとも思わず、相も変らず婿君のかしずき騒ぎをしていた。新夫婦づきの女房は、ことにすぐれた者をもってしたり、気に入りそうな遊びを催したり、一所懸命である。御所では母の更衣のもとの桐壺を源氏の宿直所(とのいどころ)にお与えになって、御息所(みやすどころ)に侍していた女房をそのまま使わせておいでになった。更衣の家の方は修理の役所、内匠寮(たくみりょう)などへ帝がお命じになって、ひじょうにりっぱなものに改築されたのである。もとから築山(つきやま)のあるよい庭のついた家であったが、池なども今度はずっと広くされた。二条の院はこれである。源氏はこんな気に入った家に自分の理想どおりの妻と暮すことができたらと思って、しじゅう嘆息をしていた。 光の君という名は、前に鴻臚館(こうろかん)へ来た高麗(こうらい)人が、源氏の美貌と天才をほめてつけた名だと、そのころいわれたそうである。

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